本物を学ぶためにフランスへ

自分たちがメインで料理をするようになるにつれ、私は本場に行ってフランス料理をもっと学びたいという気持ちが強くなっていました。当時、フランスのキッチンには必ずと言って良いほどあった「レ・ペルトワール※2」という本の原書を本場から取り寄せ、辞書を片手に解読していく内に、我々が日本でやっているフランス料理のその奥には、とんでもなく深いものがある事を知ったのです。

※2 レ・ペルトワール・・・オーギュスト・エスコフィエが著した5000種類以上にも及ぶ料理本「ル・ギード・キュリネール」を、氏の弟子たちが簡素化してまとめた料理手帳。

私はその本の内容に触発され、フランスへ行くことを決意しました。当時、私が頂いた初任給は1万円5千円程で、フランスへ行く飛行機代が24万数千円という時代でした。それも片道。その頃のフランスへの交通手段は他に船や鉄道もありました。ある時、フランスからの船が神戸へ寄ることを知って、フランスの匂いを嗅ごうと神戸まで行ったことがあります。船からフランス帰りの人が降りて来ると、何となくフランスの雰囲気を味わえたような気がしました。そんな単純な憧れを持っていましたね。

もちろん、フランスには人脈がありませんでしたから、行く前に出来る限りのコネクションを作っておかなければと思っていました。そこで、当時フランスへの研修経験があった先輩に紹介状を書いて頂いたり、フランス語を習いに行っていたのでフランス人講師に相談したりしたんです。そうしたら彼に、向こうに行けば何万軒もフランス料理のお店があるからどうにかなると言われましてね(笑)。私もとりあえず行って、ダメなら帰るしかないなと思っていました。

結局、フランスへは一番早い飛行機を選び、18時間くらいかかって行きました。それから、毎日仕事を探す日々が始まります。目指すお店はいわゆる高級店でしたので、とにかくそういうお店に行くのですが当然断られます。シェフに会うためには11時、14時半、18時頃が休憩や手が空きやすい時間で、この3回、つまり一日に回れるお店は3店舗しかないのです。それを何度も繰り返しましたね。
そうこうしながら、講師の実家の住所を教えてもらっていたので、行くことにしたんです。実家があるのは、パリから150キロほど離れたノルマンディのリルボンという小さな町で、そこまで行くのは本当に大変でした。行って驚いたのは、彼の実家がお城だったんです。1ヶ月くらい滞在させて頂いたんですが、お礼としてやることと言えば広い庭の草を刈ることくらいでした(笑)。

その後、彼のお父さんの紹介で避暑地として有名なエトルタという街のレストランに就職させてもらうことができ、そこのオーナーにとても気に入ってもらいましてね。でも、次の問題はビザが取れないことでした。就労ビザというのは今でもそうですが、取得が大変難しいのです。何度も申請したけれどダメで、仕方なくまたパリに戻ることになりました。その後、1年間の研修ビザが下り、エッフェル塔にあるレストラン「ジュール・ベルヌ」で働くことになったんですが、研修ビザは1年間で申請は1度しか出来ないんです。それでまたビザが切れる頃になって、そのお店のオーナーに尽力してもらって何とか正式なビザが下りることになりましてね。やっとどこでも働けるようになり、フランス人と同じ待遇で雇って貰えるようになりました。それまでは本当に落ち着かない日々でしたね。

・ セップ茸…ヤマドリタケ。イタリアのポルチーニと同種のキノコ。

・ パピヨット…包み焼き料理。

フランス料理界に起きた革命

パリでは、ビザを取得してくれた「ジュール・ベルヌ」の他に、コンコルド広場にある「ホテル・ドゥ・クリヨン」や「マキシム」などでも働きました。当時、若い人達は同じところに長くいないことが多いのですが、私はクリオンに3年程いました。
その当時の時代背景を話しますと、ちょうど1970年頃というのはフランス料理の中でクラシックなものと新しいものとの端境期でした。その頃、クラシックを代表していたのは、「オーギュスト・エスコフィエ(1846年-1935年)」というホテル・リッツやロンドンのカールトン・ホテルの総料理長を歴任した人で、そのエスコフィエの作り出した料理がその頃のクラシックなフランス料理の中心になっていたのです。そんな時代の中で新しく生まれようとしていたのが「ヌーベルキュイジーヌ(新しい料理という意味)」というスタイル。これは地産地消であったり、運送手段の発達によって海産物の美味しいものや鮮度の良いものが簡単に入手できるようになって、そこにあまり火を加えずフレッシュな状態で出せるようになったりと、時代の流れによる変化から生まれました。

このスタイルは、リヨンの郊外にある「ラ・ピラミッド」というレストランから始まります。そこのオーナーシェフが「フェルナン・ポワン(1897年-1955年)※3」という人で、そこで働いていた弟子たちの中から、後にミシュランの三ツ星を総なめにしてしまう、「ポール・ボキューズ※4」や「アラン・シャペル」、「フランソワ・ヴィーズ」、「ルイ・ウーティエ」などが出てきました。そんな新進気鋭のシェフ達がマスコミの力によって世界中に名を知られることになり、ヌーベルキュイジーヌというスタイルは世界中に認知されることになったのです。
そんな時代にフランスでベーシックな料理を学びながら、新しい料理をやりたいと思っていた私は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いでフランス料理界を席巻していたポール・ポキューズさんに何度か手紙を書き、一緒に仕事がしたいということを伝えました。しかし、残念ながらフランスにいる間に叶うことはなかったのです。

※3 フェルナン・ポワン・・・20世紀最高のシェフと謳われ、顧客の中には各国の王室、芸術家のピカソやジャン・コクトー、米国大統領のアイゼンハワー、実業家のロックフェラーなどが名を連ねていました。ポワン氏がオーナーシェフを務めた「ラ・ピラミッド」は1933年から1986年まで(ポワン氏が亡くなった1955年以後はポワン氏の夫人が引き継ぎ)、ミシュランの三ツ星を守り続けたレストランです。

※4 ポール・ボキューズ・・・1926年、リヨン近郊のコロンジュ・オ・モン・ドールの料理人の家系に生まれ、「ラ・ピラミッド」など多くのレストランで修業を積んだ後1959年に生家のレストラン「ポール・ボキューズ」を継ぎました。1961年にはフランス政府より国家最優秀職人章(MOF)を授与され、1965年に得たミシュランの三ツ星を40年以上にわたって維持し、「ヌーベルキュイジーヌ」の旗手として国際的な知名度とともに現代フランス料理界で特別な存在となっています。

フランスには6年ほどいましたが、日本へ帰ろうという気持ちはありませんでした。フランスからカナダへ行って、アメリカに入って、そこらで何かやろうという野心を持っていました。でも、家庭の事情があって日本に帰らなければならなくなって、帰国後にまた仕事探しが始まります。自分の考えとしては、東京のレストランで働いて将来的にはレストランをやりたいと思っていました。そうこうしている内に、ポール・ボキューズさんが大阪のホテルプラザに顧問として来ることを知って、今度こそ一緒に仕事がしたいと申し入れをしたのです。それでやっと願いが叶い、彼とは3年、そしてボキューズさんの兄弟分だったルイ・ウーティエさんと4年間仕事をしました。その頃、30代前半でしたが様々なホテルからオファーをいただくようになり、その中で私の意向を全面的に受け入れてくれた大阪全日空ホテルに行くことにしたのです。そこで洋食の料理長兼レストランのシェフを任されたとき、約束したのは「大阪でナンバーワンのお店にする」ということでした。

横田シェフが総料理長を務めた、大阪全日空ホテルのフランス料理レストラン「ローズルーム」は、当時話題の格付誌「グルマン」で連続三ツ星を獲得しています。

・ ウィンナーシュニッツェル…ウィーン風のカツレツ。

・ モリーユ茸…アミガサタケ。

・ ブランマンジェ…「白い食べ物」の意味を持つ冷菓。古くは肉を使うレシピが多くみられる。オーギュスト・エスコフィエの著書では、デザートとして記されている。

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