備前焼を通して伝えるおもてなしの心(前編)

日本で最も古く、最も長く続く窯業地、岡山県備前市。一千年以上もの間、火を絶やすことなく続いて来た窯場は、日本で唯一、備前焼だけである。 祖父と父、その二代に渡る人間国宝から受け継いだ無釉焼き締めの伝統。その備前焼を継承する藤原家当代・藤原和先生が今、思うこととは―――。
備前焼について。そして、藤原備前と料理、食文化、これからの展望について語る。

藤原 和 (ふじわら かず)

1958年 備前生まれ。
1958年 備前焼の人間国宝・藤原雄の長男として備前市穂浪に生まれる。明星大学卒業後、帰郷。同じく人間国宝であった祖父・啓、父・雄に師事し、作陶を始める。
1990年 初窯を焚く。翌1991年、岡山天満屋での初個展を皮切りに、日本橋高島屋など全国のデパートやギャラリー及び国内外で、毎年個展を開催する傍ら、祖父や父の記念展などをプロデュースする。
近年、今あらためて日本人の育んできた「伝統と文化」や「縁」といった、「日本の容」に対する想いを藤原備前の継承者として、土を通じ発信し続けている。

■所属 
社団法人 日本工芸会・社団法人 日本工芸会 中国支部/社団法人 日本学士会、社団法人裏千家淡交会 岡山支部 及び 岡山烏城・旭川・後楽各青年部顧問備前焼陶友会理事/協同組合 岡山県備前焼陶友会 理事/財団法人 藤原啓記念館理事長/Holland・Universietit Leiden客員教授

眼前には青く輝く瀬戸内の海。その穏やかな海と点在する島々を臨む、小高い丘の上にある「藤原啓記念館」。その先の母屋玄関へと促され、格子戸を開けたとき、一瞬で凛とした空気に立ち代わる。そこには、荘厳な佇まいで並ぶ、藤原備前の存在感があった。

備前焼で1番特徴的なことは、一度も火が消えたことがない窯場であること。

備前焼の歴史は、だいたい1300年くらい。世界中には他にも歴史のある色んな焼き物があるんだけど、ほとんどが戦争とか色々な要因でどこかで火が絶えていたり、海外から輸入されて伝わっているものだったり。日本の土壌で根付いて、日本の土壌の中で1000年以上続いている窯業地は備前だけなんですよ。もちろん、備前焼がそれだけ続いてきたのには、先人の努力もあるけど、日本人の感性の中に『備前の土』というのがとても合っているんだと思う。

備前焼きは、料理を入れれば料理を、花を入れれば花を引き立ててくれる。それを『献身の美』と表現する人もいますよね。

僕の祖父の言葉で言うと、伊万里焼とか有田焼は煌びやかな芸者さん・・・そういう美しさで、備前焼の美しさは日に焼けた農家の娘が田んぼのあぜ道なんかを笑顔で元気に走りまわっているような、いわゆる健康美だと言っていた。 僕も、備前の土にそんな『力』を感じるんだよね。

僕はもう何十年も備前の土と向き合っているわけだけど、表現方法の少ないところが備前焼の難しいところだと思ってる。釉薬を使うことが出来ないから、色は基本的には土の色と焼いた色だよね。茶黒くなるのは煙が付くことによって出る色なんだよ。 だから、形で勝負しなければいけない。かと言って、土の特性ってのがあって、今僕が使っている土は曲がらない土なんだよね。曲がらないっていうのは、曲げて作ろうとすると潰れちゃうし、平たくするとすぐ曲がっちゃう。大きく作ると潰れちゃうというふうに、自分の思惑どおりに曲がらないってことなんだ。だから、普通の土と違って扱いが凄く難しい。扱いが難しい土でものを作るということと、造形的なものが出来ないので見せ場が作れない。ということは、「土が持ってる、形が持ってる内面」を外に引っ張り出して勝負しなきゃいけないってことになるよね。そこがやっぱり1番苦労するところかなぁ・・・。 

人が感激する時って、たとえばスポーツだとスピードや汗とかそういう「動」の部分を五感で感じてると思うんだけど、僕らは物を作ってるところや窯を焚いている「動」の部分を人には見せないでしょ。人に見せるのは作品だけだから、焼き物の中に作ったり焼いたりしている動いている部分を想像させるくらいのエネルギーを全部入れなきゃいけない。昔は形を一生懸命作らなきゃいけなかったから1日に100個とか200個とか作ってたけど、今は1個1個にエネルギーを集中させながら作っているから物凄く疲れる。ぐったりするくらいエネルギーを注いでいるんだ。

重厚な木で設えた棚に、整然と並べられた作品の数々。ふと、一箇所、不自然に空いた空間があった。ぽっかりと空いたその場所に違和感を覚えつつ、 またすぐに先生のお話に引き込まれて行く。その違和感が驚きに変わったのは、まだもう少し先のことでした。

今までやって来て、自分の仕事に満足するっていうことはないけど、自分が狙った通り出来たという作品は2つあるかな。 僕は2つも出来てるから自分では運が良い方だと思っている。一生かかっても納得のいくものはできないという人もいるし・・・。 まぁ、もちろん目標設定がどこにあるかで全然違って来るけどね。

でも、僕は最初から陶芸家の道を歩いていたわけじゃないんだ。 祖父が亡くなったときにこっちへ帰ってきてて。僕はその時大学生で。それで、卒業後はやろうと思っていたことがあったから東京に戻ろうとしたんだよ。そしたら、「そうか、やっぱり和くん東京に戻るのか。まあ、雄さんには勝てないもんな。」と言った人がいてね。僕の性格をよく知ってるんだと思うけど・・・。じゃあ何かい?僕が親父に勝てないから逃げるみたいなことを言うのかと(笑)

「だったらやってやろうじゃないか!」ってことで、親父の助手をし始めたんだよね。 それで陶芸家の道を歩むことになったわけなんだけど、何が大変だって、技術を1つ会得したと思った途端に次の段階が見えて来る。それの繰り返しで・・・まるでキリがないんだよ。 親父も同じように次へ次へと・・・。だから、僕と親父の距離は全然縮まらない。 僕もそろそろ親父のレベルに達して行かなきゃいけないと思うんだけど、またそれが違うんだ。それは時代背景であったり、その人が持ってる人間力だと思うんだよね。


祖父の話をするとね。 祖父のいちばん凄いところは・・・。たとえば、ぶどうがあるとするでしょ?ぶどうをじいさんの小皿に置く。・・・するとその皿が全然邪魔にならない。よくわからないかも知れないけど、「邪魔にならない器の凄み」というのがある。

プロっていうのは、文章書く人でもカメラマンでもそうだと思うけど、どこかに自分の表現っていうのをなにかに入れたいと思うでしょ?何か自分という人間を表現しなきゃいけないから。もちろん、商売でそれを生業にしているわけだから何もなきゃダメなわけで・・・。だって、もし何も表現を入れなかったら、民芸品と同じじゃない?その辺のお土産とどこが違うんだよ?って言われかねないよね。だから、ちょっとしたところにたとえ自己満足でも0.1ミリ単位で自分の表現をしたがるんだよ。

でも祖父は違う。それがない・・・。何にもない・・・。

祖父の陶芸は、土をポン!と置いて、土が行きたいところまででやめちゃうんだ。 そこには作為ってのを入れないから、人間がそのまま土の中にスポッと入っちゃう。そんな仕事が出来る人っていないと思うよ。それが凄い。自分がそこに入れちゃう仕事の仕方。 祖父の器って『使いたくなる器』だとよく言われるんだ。飾っておきたいんじゃなくてね。「啓さんのとっくりに酒入れて飲んだら美味いだろうなぁ」とか、「この花を入れたらいいだろうなぁ」とか。決して美術品じゃない。やっぱり・・・器なんだよね。

実は、それに気付いたのはつい最近。ゾッとしたよ。偉大さとかじゃなくて、とにかく凄い人!人間が凄い!人間力が。僕らみたいに昭和30年代に生まれてボヤーっと過ごして来た人じゃないから、明治・大正・昭和という激動の時代を生き抜いて来て、日本の国家の礎を築いて来た人達でしょ。違うよ、なんか違う。根本的なものがね。

藤原啓記念館
昭和51年、喜寿を迎えた藤原啓は備前市から名誉市民の称号をうけました。この記念すべき年に、長年の夢がようやく実現。財団法人藤原啓記念館が設立され、人間国宝藤原啓の足跡ともいうべき年代毎の代表作品、および彼が影響を受けた古備前を一堂に集めて広く展示・公開し、備前焼の振興と文化の高揚に寄与することとなり現在に至っています。

この辺りは田舎だから昔は特に何にもないんだけど、お客さんが来たら近所でとれる食材で料理をお出しするという昔からの慣例が、たまたま藤原家では今も残ってるんだ。今からお出しするね。今回用意した料理も海の幸が中心かな。では、食の話は後ほど。

*次回の「賢人の食と心」も是非ご期待ください。
後編へつづく