江崎記念館

90年以上にわたり子どもたちの健やかな成長に寄り添い、数々のヒット商品を生んできた江崎グリコ。なかでも「グリコ」と「ビスコ」は誰もが知るロングセラーお菓子です。楽しさあふれる商品の裏にある創業者の思いに触れるべく、江崎記念館を訪れました。

江崎記念館

大阪府大阪市西淀川区歌島4丁目6番5号 06-6477-8257 https://www.glico.com/jp/enjoy/experience/ezakikinenkan/
開館時間 10:00~16:00(最終入館 15:30)
開館日 月曜~金曜(要予約) 第1・3土曜(予約不要)(※臨時休館あり)/ 入館無料(10名以上の団体の場合は前日までに要予約)
創立50周年を記念して1972年、創業の地・大阪に設立。創業者である江崎利一氏のゆかりの品や貴重な資料などを多数展示し、創業からの歩みや商品づくりへの思いを知ることができる企業ミュージアムである。元は従業員教育を目的とした施設であり、一般開放されるようになったのは5年ほど前から。第1・3土曜日は予約不要、平日は事前予約をすれば、誰でも自由に見学することができる。

グリコーゲンとの出会い

江崎利一氏直筆の「創意工夫」。徹底してオリジナルを追い求めた商品開発はまさに創意工夫の連続でした(写真上)。来館者全員へのお土産にと置かれているグリコ。見学の思い出に1人1個持ち帰ることができます(写真下)。

大阪市西淀川区に建つ江崎グリコ本社。その広い敷地内に江崎記念館はあります。貴重な展示品の一部は国の近代化産業遺産に認定されており、見学スペースはワンフロアながら見ごたえは十分。子どもだけでなく大人も楽しく学ぶことができます。館内は自由見学となっていますが、今回は江崎グリコ広報担当の方に案内をお願いし、より詳しく解説していただきました。一般の見学順路に従い、まずは映像で創業者である江崎利一氏の商いの精神や創業に至るまでのストーリーなどをひも解いていきます。

明治15年、佐賀県に生まれた利一氏。父親亡き後19歳で家業だった薬種業を継ぎ、一家の大黒柱として家計を支えていました。以前寺子屋の先生をしていた方から商売の本質を学び、商才を磨いた利一氏は、海外から大樽で安く仕入れたワインを空き瓶に移し替えて売る葡萄酒販売業で大成功をおさめます。自転車で行商に向かっていたある日のこと。筑後川下流付近で漁師たちが牡蠣を乾物にするため大鍋で煮ているところに出くわします。その煮汁が捨てられているのを見て、いつか読んだ新聞記事の中に「栄養素グリコーゲンは牡蠣に多く含まれている」と書かれてあったことを思い出した利一氏。煮汁にもグリコーゲンが豊富に入っているではとひらめき、漁師から分けてもらって専門機関へ分析を依頼しました。

グリコーゲンをキャラメルに

利一氏がキャラメルの試作時に使っていた鍋。木製のしゃもじはすっかり擦り切れ当時の苦労がしのばれます

利一氏の読み通り、牡蠣の煮汁にはグリコーゲンはもちろん、カルシウムや銅も含まれていることがわかりました。当時はグリコナールという薬が販売されていたこともあり、このグリコーゲンも何か人のために生かせるのではないかと研究を進めることにしたのです。

その翌年、利一氏の長男がチフスにかかり死の淵をさまよいます。一命はとりとめたものの食欲が戻らず衰弱するばかり。そこで医師の了解を得て研究中だった牡蠣のエキスを与えたところ体力が回復。この経験を機にグリコーゲンを広く人々の健康に役立てようと考えました。最初は薬にすることを思いつきますが、病気の治療より健康な体づくりに生かしたほうがよいと考え直し、食品にグリコーゲンを加えることに。つくだ煮やふりかけなどあれこれ試す中で着目したのが、育ち盛りの子どもに一番人気だったキャラメルでした。自ら試作品を作っては周囲の人に試食してもらい、納得がいくまでキャラメルづくりに勤しみ製品化を実現しました。


試行錯誤のハート型

現在のグリコ。昔から変わらずグリコーゲンが含まれています。一時期製造の都合で四角い形で販売されたこともありました。

グリコーゲン入りキャラメルを栄養菓子として売り出そうと本格的に動き出した利一氏。新しい商売の地を商都・大阪と心に決め、販売戦略を練り始めます。

まずはもっとも重要な名称。他社製品との差別化を図るため、あえてキャラメルの名を入れず、語呂と音の響きが良く覚えやすい「グリコ」としました。また飴の形状にもこだわりました。当時発売されていたキャラメル商品は四角形が主流。しかし口に含んだときに角があたるのが気になります。そこで利一氏は小さな子どもでも安心して食べられる舌触りの良いものをと追求。コロンと丸いハート型を思いつきました。ところが専門家たちは「ハート型のキャラメルなんてできるはずがない」と一様に否定的。その言葉に発奮し、独自に製造方法を編み出し機械を開発してハート型キャラメルを生産できるようにしました。

ちなみに江崎グリコの社員章には、発売当初のハート型が採用されており、利一氏のグリコに対する並々ならぬ情熱をうかがい知ることができます。

パッケージに込められた思い

発売当初のパッケージの中にはおもちゃではなく、花や人物を印刷した「絵カード」が封入してありました。

インパクトのある赤箱のパッケージにも利一氏の揺るぎない信念が込められています。家の近所にあった神社の境内で、たまたま子どもたちがかけっこをしている様子を目にした利一氏。子どもたちが両手を挙げてゴールする姿にヒントを得て、健康の象徴として商標に「ゴールインマーク」を立案しました。子どもたちの反応を知りたいと、象や花など他のマーク案とともに小学校で人気調査を実施。その結果、圧倒的な1位を獲得したゴールインマークを採用することにしました。

しかし、初期のデザインは「顔が怖い」と女性からは不評。柔らかな表情に描きなおすことに。その時に参考にしたのがオリンピック選手や著名なマラソン選手のゴールイン姿。すっかりおなじみとなった躍動感のあるマークはこうして生まれました。

グリコのもつ栄養価の高さを端的に表現した「一粒三百米突(ひとつぶ300メートル)」という惹句(キャッチフレーズ)が生まれたのも同じころ。利一氏が小学生時代に食べた大きな飴玉が、口に頬張ると佐賀から博多まで持つと言われていたことを思い出し、グリコ1粒のカロリーを計算してこの名フレーズが出来上がったのです。

最初は売れず大苦戦

創業当時のハート型ローラー。利一氏が幾度となく失敗を重ねてようやく形にした力作です

グリコを販売する準備を整えた大正10年、満を持して江崎一家は大阪へと移ります。葡萄酒業兼グリコの製造工場として合名会社江崎商店を設立しますが、キャラメル業界は大手メーカーが台頭し販路を切り開くのに四苦八苦。「赤い箱にグリコと書いてあるだけでは中身が何かわからない」と最初は思うように売れませんでした。

けれどもグリコに絶対的な自信を持っていた利一氏は諦めませんでした。商品価値を高めるには最も信用のある場所で売るのが一番と、百貨店に目を付けます。何度も何度も三越に足を運び、粘り強く交渉を続けたところ相手が根負け。大正11年2月11日にようやくグリコが店頭に並ぶこととなりました。その後は高島屋や大丸などにも置いてもらえるようになり、徐々に国民のお菓子として確固たる地位を築いていくのです。

江崎グリコでは当時の苦労と感謝を忘れないために、2月11日を創立記念日に定めています。


おもちゃ約4000点を展示

今では貴重な紙で作られたおもちゃ。なつかしさに心を震わせる大人も多いでしょう(写真上)。グリコのおもちゃは戦争で焼けてしまったものも多く、記念館には4000点が展示されています(写真下)。

グリコを買う楽しみといえば必ず付いてくるおもちゃ。パッケージを開けるときのワクワク感や、小さな喜びをコレクションして友達と遊んだことなどを大人になっても思い出す人も多いのではないでしょうか。記念館にはガラスのショーケースの中に約4000点のおもちゃが展示されており、その変遷をたどることができます。

「子どもにとって食べることと遊ぶことは二大天職」と考えていた利一氏。キャラメルで体を健康にし、おもちゃで心を健康にしようと昭和2年から豆玩具付きのお菓子を販売することにしました。これまでに生まれた数はなんと3万種類。小さく精巧な一つ一つからは利一氏や担当者の強いこだわりと時代背景が読み取れます。

昭和初期に入っていたのは造幣局製のメダル。造幣局がお菓子のおもちゃを作るなど今では考えられないことです。戦後は物資不足から紙やゴムなどが材料として使われていたことも。1957年にはプラスチックのおもちゃが登場し、乗り物や家電をミニチュアにしたものが人気を博します。男の子用と女の子用に分かれたのは1967年。わかりやすくパッケージで差別化されました。現在は木のおもちゃへと移り、デジタルと融合。専用アプリと連動させて子どもたちの創造性を広げるなど、時代に則した遊びを提案しています。

第二の栄養菓子「ビスコ」

ビスコは当時油脂を使ったクリームであったことも注目されました。パッケージに描かれた坊やもすでに85歳!

グリコに次ぐ栄養菓子として売り出されたのが「ビスコ」です。昭和8年より販売を開始したビスコは今年で発売85年目を迎え、グリコと同じく人々に愛されてきたロングセラー商品です。小箱入りのビスケットは当時非常に珍しく、ポケットにも収まるサイズは子どものおやつに適しているとお母さんたちから重宝されました。

現在のビスコには乳酸菌が含まれていますが、昔のビスコは酵母入り。酵母にはおなかの調子を整える機能があると知った利一氏がクリームに加え、日本で初めての酵母入りクリームサンドビスケットが登場しました。

発売以来パッケージは大きく変更されていませんが、製法は平成17年にリニューアル。クリームと乳酸菌の量を増量し、ビスケットの口どけも改良されました。ビスコは時を経てなお味の進化を続けています。


おいしさを形にする現場の努力

ロングセラー商品を発展させた新しい味も続々。江崎グリコのお菓子はいつも私たちのそばにあります(写真上)。写真左の黄色いボックスが日本初の映画付き自動販売機。当時の図面をもとに復元されたものです(写真下)。

「創意工夫」を信条としていた利一氏にとって、既存の商品のものまねは絶対に許されないことでした。こうした創業者のイズムは従業員たちにもしっかりと引き継がれています。その一端をアーモンドチョコレートやプリッツ、ポッキーの製造にまつわるストーリーに垣間見ることができます。

戦前にアメリカに渡った際、アーモンドの高い栄養価を知った利一氏は、キャラメルにアーモンドを入れることを提案し、昭和30年にアーモンドグリコを発売。更にその3年後にはアーモンドを丸ごと1粒入れたチョコレートを開発しようと考えました。しかし製造に手間がかかり大量生産には向かないと、従業員がアーモンドを砕いて作ることを提案します。けれどもそれでは他社の商品と変わりがなく面白味がありません。従業員の意見を却下し「手作業でもいいから作るように」と強く命じてピンセットを使って1粒ずつ作らせました。すると従業員たちは知恵を巡らせ、専用の製造機械を開発しようと技術力を身に付けます。その結果、販売地区拡大時には大量生産できるシステムが誕生。安定した品質も保てるようになったのです。

また「プリッツ」はドイツ伝統の焼き菓子であるプレッツェルからヒントを得て、スティック型のお菓子にしたものです。細く長い形の原型はヨーロッパにありましたが、生産効率が悪かったため機械開発部門が改良し、これまた大量生産を可能にするマシンを開発。昭和38年にバタープリッツが店頭に並ぶと、たちまち大ヒットしました。

プリッツの人気に乗じ、チョコレートをコーティングして発売したのが「ポッキー」です。ポッキーも大量生産するシステムがなかったので、まずは手作業で製造し試験販売を開始。市場の高いニーズを見通せると、専用の機械を独自に開発し生産設備を整えました。

利一氏の秀でたアイデアに応える現場のたゆまぬ努力があったからこそ、さまざまなヒット商品が生まれたのです。

【コラム】子どもの夢を詰め込んだお菓子の自動販売機

昭和6年にグリコは日本初の映画付きのお菓子の自動販売機を設置しました。その仕組みは斬新で、十銭を1枚投入するとモノクロ映画のワンシーンが音楽と共に流れた後、グリコとおつりが出てくるようになっていました。当時は映画の続きが観たい子どもたちで行列ができるほど人気を得ていたそうです。

目立ってナンボの広告戦略

グリコのネオン看板は大阪を象徴するスポットの一つ。現在はLED電球に変わり、街の賑わいを盛り上げています(写真上)。こちらが豆文広告。新聞1段分ほどの小さなものですが、思わず目に留まるインパクトがありました(写真下)。

グリコはすんなりと売れる商品ではなかったこともあり広告宣伝に力を注ぐようになります。その典型ともいえるのが大阪の道頓堀にひときわ光り輝くネオン看板。大阪一にぎやかな場所を宣伝の地として選んだのもまた利一氏でした。ネオン看板はきらびやかに光りを放ってこそ効果をあらわすもの。夜に人通りの多い場所でなければ意味がありません。なおかつ、人々が看板に目をやる余裕があるようゆっくり歩いているところを探しました。この2つの条件を満たす場所は、大阪では道頓堀の戎橋以外になかったのです。

初代のネオン看板は周辺の建物の中ではダントツの高さでかなり目立ちました。2代目の看板は看板の袂にステージが設けられ、漫才やショーなどを開催。戎橋から観ることができたそうです。目からうろこの広告戦略はいつの時代も話題をさらいました。

また新聞広告にも工夫を凝らしました。利一氏に安価な広告料で効果的なものを求められた当時の広告部長は、一寸角のスペースに字句とイラストを配した「豆文広告」を提案します。字句は読者からの投稿を採用。小さな広告は多くの人々から注目されるようになり、グリコの知名度アップに絶大なる効果をもたらしました。

商売を通して社会貢献を行うことを若い時から目標としていた利一氏。その魂はこれからも脈々と受け継がれ、私たちに夢を与えてくれることでしょう。

(2018年1月 取材・文 岸本 恭児)