奈良パークホテル

奈良の都が平城京を中心に繁栄を極め、貴族文化が開花した天平時代。宮廷貴族たちは華やかな生活を送り、宴では贅を尽くした食を楽しんでいました。いにしえの豊かな食文化に思いをはせ、豪華な宮廷料理を現代によみがえらせたのが、奈良パークホテルの「天平の宴」。同料理長を務める足立秀滋さんにお話をうかがいました。

奈良パークホテル

自家源泉の温泉露天風呂を有する落ち着きのある宿。湯だけでなく、地元の旬の食材を用いた会席料理など、趣向を凝らした料理にも定評がある。国内外のゲストからひときわ注目を集めているのが、1300年前の宮廷料理を今に伝える「天平の宴」。食材から厳選し、味や盛り付け、雰囲気に至るまで万葉人の宴席を再現している。予約は3日前から(2名より)。

奈良県奈良市宝来4丁目18番1号
0742-44-5255
http://www.narapark.jp/

ロマン香る宮廷料理

平城宮最大の宮殿である大極殿(画像上)。天平の宴専用にしつらえが整えられた「大宮の間」。当時の貴族の気分になって宴の時間を堪能できます。(画像下)。

「天平の宴」は奈良パークホテルが長年の歳月をかけて完成させた1300年前の宮廷料理です。古代のヘルシーなフルコースは、木の実で作った食前酒に始まり、サメや猪肉などの珍味や和菓子のルーツと言われる一品が並ぶなどバラエティ豊か。貴族たちの華やかな食生活がしのばれます。

同ホテルが「天平の宴」を提供することになったのは25年前。文豪・志賀直哉が随筆『奈良』の中で“奈良にうまいものなし”と書いたことは有名ですが、前オーナーがこの言葉を逆手に取り、奈良にしかない特徴のある食を作ろうと発案したことがきっかけでした。そこで思い立ったのが天平時代の宮廷料理の再現です。しかし、当時の料理に関する詳細な文献は残っておらず、貴重な手掛かりとしたのは平城宮跡から発見された木簡でした。木簡とは、墨で文字を書き記した短冊状の木の板のこと。昔は紙と同じように用いられ、荷物を送る際には荷札として使われていました。平城宮跡では1959年より行われた発掘調査で、7万点にのぼる木簡や土器などが出土。その木簡の中には野菜などの名前が書かれたものも多数あり、当時どんな食材が食べられていたのかといった情報を得ることができます。そこで、考古学者など専門家たちの力を借りて内容を解読。万葉集の和歌の中に詠まれている食材や日本書紀からもヒントを得ながら、5年に及ぶ研究を重ね、万葉人の宮廷料理を現代に蘇らせました。その後も現代人の味覚に合うよう何度も改良し、現在は料理長の足立秀滋さんが中心となって食材の調達や仕込みを行っています。

ずらりと並ぶ凝った料理

当時の味を忠実に再現しながらも献立の構成は現代人向けにアレンジ。強めだったと思われる塩味は抑えてあります。

全16品で構成されている豪華な「天平の宴」。その一部を紹介します。

●醤(ひしお)/現代の味噌や醤油のルーツ ●玄米酢 ●藻塩 ●白酒(しろき)/にごり酒 ●蘇(そ)/新鮮な牛乳を煮詰めた結晶。古代のチーズ ●羹(あつもの)/現代の吸い物 ●黒米/餅米。古代中国皇帝専用の薬膳米 ●楚割り(すわやり)/サメや鮭などに薄塩をしてから干したもの ●鱠(なます)/現代の造り ●脯宍(ほじし)/干し肉 ●脯魚(ほじうお)/鮎や鰯などの丸干し ●赤米/現代の赤飯のルーツ ●唐菓子/中国から伝わった菓子。和菓子の原点 など

一品一品手の込んだ料理が並びますが、現代と大きく異なる点があります。それは、どれも味付けがされていないこと。目の前に出された時点では、素材そのものの味しかしません。食べ方のヒントは、小皿に入った古代の調味料に隠されています。醤や玄米酢、藻塩を使い、自分の好みに応じ食べる際にお客さん自身で味付けを施すのです。
「料理人たちが調理時に調味料で味をつけるようになるのは平安時代後期から。それ以前は味付けをするという発想がなかったようです。汁物も出汁のうま味はありますが、食べる際にお客様ご自身で塩を足していただきます」と足立さん。目から鱗のユニークな食べ方も現代人にとっては新鮮で、宴席を盛り上げます。


宴席の演出も本格的

灯芯台の明かりの下で料理をいたただきます。やわらかな光がいにしえの宴の雰囲気を高めます。

「天平の宴」では料理だけでなく演出にも余念がありません。宴が始まる前にお客さんたちはまず、天平時代の貴族衣装に着替えます。宴席の場として用意されるのは、宮廷のしつらえになぞらえた専用の「大宮の間」。灯芯台(油にい草を浸したもの)に明かりが灯ると、いよいよ宴のスタートです。次々に運ばれてくる料理は須恵器を模した器に盛られ、本格的な演出に胸が踊ります。

食事中は、調理を担当した料理長が語り部に変身。食材のルーツや当時の文化、貴族・庶民の生活などについて丁寧に話してくれます。宴が催されるのは1時間半から2時間とゆったり。白酒と呼ばれる口当たりの良いどぶろくに頰を赤らめながら、珍しい料理の数々に舌鼓を打っていると、まるで天平時代にタイムスリップした気分になります。凝った雰囲気づくりと料理にお客さんたちは大満足。「現代にはない素朴な味が楽しめた」「貴族の気分を味わえて感動した」など喜びの声が寄せられています。

天皇も好んだ高級食「蘇」

蘇は古代のチーズと言われているもの。牛乳を煮詰めてできた結晶で、混じりけのない味が特徴です。

数ある中でも宮廷料理を代表する一品が「蘇」です。牛乳を原材料とし古代のチーズと呼ばれ、平安時代の法令集である「延喜式」には作り方が記されています。食べておいしいだけでなく、肝臓の機能を強化する効果があると言われ、蘇だけを専門に作る料理人が存在したほど貴族たちにとって特別な食べ物でした。種類も多種多様にあったようで、光明皇后は聖武天皇に、蘇にハチミツを加えた「蘇蜜」を献上するなど、高級食品として珍重されていました。

当時の作り方にならって蘇を手作りしている足立さんですが、出来上がるまでには非常に手間がかかると言い、天平の料理人たちの苦労に思いを巡らせます。
「私たちが1回の仕込みに使う牛乳は30L。鍋に入れて12時間ほどかけ、弱火でじっくりと煮詰めています。その間、火を止めることはできずつきっきり。かき混ぜていないとすぐに焦げついてしまうので、3人がかりで交代しながら炊き上げます。液体からどろっとしたペースト状に変化すると火からおろし、一晩寝かせたらようやく完成です」。

純粋に牛乳だけを凝縮させた乳製品は現代のチーズよりも素朴な味わい。牛乳特有のほのかな甘みが感じられます。蘇は鎌倉時代まで盛んに作られていましたが、当時の乳牛は今の小牛ほどの大きさで取れる乳もわずかだったことや戦争の影響などで、いつしか作られなくなってしまいました。今は同ホテルの名物。宴のお土産や宿泊客の朝食にも提供されています。


大変でも一から手作り

魚肉をおろし干物にした楚割り。干すタイミングが肝心で、カラッと晴れた日に天日干しをすると味良く仕上がるそう。

当時の料理人たちが考えたレシピに則り、可能な限り一から手作りすることにこだわっているという足立さん。すべての料理を完成させるまでには大変な時間と労力を費やしています。味付け用に添えられている醤は、発酵期間を含めると食べられるまでには3か月〜半年が必要。玄米酢もオリジナルで仕込むというから大掛かりです。古代のレシピのままに作ってしまうと現代人の食の好みには合わないものもあり、食べやすくするために工夫を凝らしています。

「当時の食べ物はほとんどが塩をしたものか干したものでした。冷蔵庫がない時代に食品を長く保存するための知恵だったと思います。加工するとどうしても食感が硬くなってしまい、現代人には向きません。また、クセの強い食材も多く、どうしたらおいしく食べられるかと頭を悩ませます。たとえば、脯宍と呼ばれる料理に使うイノシシの肉。さばいてから天日干したものを蒸し、蒸したものをまた干して、炙ってお客様にお出しします。また、楚割りという料理もサメや鮭を三枚におろし、拍子切りにし薄塩をしてから必ず天日乾燥をします。特にサメは1週間から10日ほどかけて干すことで独特のアンモニア臭が抜け淡白な味になり、食べる直前に炙ることでうま味が増します。ここまで手をかけないと、柔らかく臭みがない現代人が好む味にはなりません」。

おいしく食べてもらいたいという思いから、どんなに時間がかかる料理も冷凍保存はしないというこだわりも譲れないところ。いつ予約が入っても対応できるよう、厨房では日々コツコツと仕込みを行っています。

食材の調達もひと苦労

黒米は中国歴代の工程に献上された貴重な餅米。美容と健康に良い食品として人気がありました。

当時はポピュラーであったと思われる食材でも、今となっては手に入りにくいものもいくつかあります。その一つが黒米です。

「白米を食べる習慣ができたのは平安時代後期からで、それまでは赤米や黒米を主食としていました。どちらも宴を彩る重要な食材です。特に黒米は栄養豊富で当時は貴重品でしたが、今は栽培しているところが少なく、徳島県の農家に頼んで特別に栽培してもらったものを仕入れています。
名前の通り粒が黒いのが特徴ですが、精米すると黒さは失われてしまうので、玄米のままで炊きます。難しいのがその炊き方。白米と同じように炊飯器を使って水から炊くと失敗してしまいます。おいしく食べる方法を模索した結果、土鍋に熱湯を入れて黒米を投入し、3時間ほど弱火にして炊くのがベストだとわかりました。プチプチとした食感がおもしろく、女性に好まれます。美肌にも良いとされ、世界三代美女の一人である楊貴妃もよく食べたそうですよ」。

貴重な食材の中でも、出すとお客さんに一番驚かれるのが鹿の干し肉。まさか奈良で鹿を食べる文化があったとは。
「奈良で鹿は神の使い手と言われているので食べることはタブーと思われますが、木簡には鹿肉を食べたという記述が残っています。私たちは吉野で特別にさばいてもらった鹿肉を干してから燻製にしています」。

また、いくらがんばっても再現できない料理もあったとか。足立さんが一番難しかったと振り返るのが、黒米をごま油で揚げて弾けたものに干し柿の周りにふいた白い粉をまぶしたお菓子です。貴族たちが好んで食べた猿の肉や、ねぎに近い「なぎ」という野菜も現在は入手困難で、幻の味となっています。


貴族と庶民の食格差

宴では美食を堪能していた貴族たちですが、日々の暮らしぶりはどんなものだったのでしょうか。
「専門家の先生方に聞いたところによると、仕事は午前中だけで、昼からは狩りに出たり菜園を耕したりと気ままな時間が許されていたようです。高給が約束され、現在の価値に換算すると平均年収は1億2000万〜4000万とも言われています。優雅な生活が想像できますが、普段の食生活は思いのほかシンプルでした。食事は朝食と夕食の1日2食で一汁三菜が基本。昼食を取る習慣はほとんどありませんでした」。

華やかな宮廷料理はハレの日のお楽しみ。貴族階級は食に対して極めて積極的で、時には肉や魚を生で食べていたのではないかと言う説もあります。
「平城京の貴族が使っていたトイレ跡を調べると、鮎を生で食べてお腹を下したような成分が出てきました。鹿も手や足の肉は神様にお供えし、人々が食べていたのは内臓。それも生を好んだようです。貴族は税金として納められた高級食材はもちろん、庶民が汗水流して作った野菜や米などいろんなものを食べている印象があります。当時の礼儀として、ハレの席では食べきれないほどゲストに料理を出すことが一般的だったので、宮廷料理は量が多くハイカロリーで、栄養価も高かったと考えられます」。

一方の庶民はというと、粟やひえが主食の一汁一菜で、非常に質素な生活を強いられていました。高級役人以上は特権として許されていた箸を使い、アコヤ貝から作ったスプーンまで使いこなしていたことからも、生活は庶民とかなり格差があったことがうかがえます。

まだ可能性を秘めた料理

料理長の足立さん。お客さんに説明するため木簡の情報を頼りに食材の産地に足を運んだりと勉強熱心です。

さまざまな専門家の協力のもとに蘇った宮廷料理ですが、まだまだ未知の部分が多く、足立さんは奥深さを感じています。

「食材や調理法を見ると中国からの影響をかなり受けているので、中国の文化無くしては今の日本の食文化の発展はなかったと考えられます。新しい木簡が発見されて食文化の歴史が塗り替えられたり、同じ文献でも先生方によって見解が違ったりすることもあり、現在の『天平の宴』が完成形とは言い切れません。今後も未解読の木簡が明らかにされたり関連性の高い文献が出てくる可能性は秘められています。宮廷料理は一品一品に物語があり、壮大なロマンが詰まっているところに魅力を感じています。これからも一人でも多くの人に、万葉人たちの料理を五感で楽しんでもらえるよう、精進したいと思います」。

(2019年7月 取材・文 岸本 恭児)