料理研究家 さかもと萌美さん

日本には伝承すべきすばらしい食文化がいくつもあります。けれども、ライフスタイルの変化や食の欧米化に押され、失われつつある今。再び取り戻そうと活動を進める一人の女性がいます。

料理研究家
さかもと 萌美さん

1級フードアナリスト® 協会認定講師であり、「幸福な家庭は口福な食卓から」を合言葉に料理教室「口福塾」を主宰する食のスペシャリスト。大阪や滋賀、奈良の幼稚園などを中心に母親向けの食育講座やだし講座を行っている。また、幼いうちから味覚を育てることを目的とした離乳食講座や、世界で一つの箸を手作りし、箸の使い方などを伝えるMy箸づくり講座を開催。独自の目線でとらえた食育は多くのお母さんたちから支持されている。

本物の「だし」は想像以上に奥深い

「最近の若い子たちは、手作りのお弁当なんて持ってこないのね。持ってくる子はせいぜい全体の1割くらい。お昼休みになるとみんなコンビニへ一目散に走っていくの。食について毎日学んでいる子たちがこれでは、日本の将来は大丈夫かなって本当に心配になるわ」。フードアナリストとして調理専門学校で教鞭も執るさかもとさんが垣間見た若者たちの食は、あまりにお粗末なもの。こんな光景を目の当たりにするたび、幼いうちからの食育が急務であることを痛感するといいます。

20代のお母さんたちを集めて開く食育講座やだし講座では、食に対する知識の低さに愕然とさせられることも。「家に昆布が常備してある人は?と問いかけても、まず手が挙がらないの。じゃあお味噌汁は何で作るのかといえば、袋を開けるだけの手軽な顆粒だしなのよね」。 講座ではまず、昆布、かつお、干ししいたけでとっただしをそれぞれに飲んでもらい、後でこれらをブレンドしたものを試飲します。するとお母さんたちの表情がガラリと変わり、「おいしい!」と"本物のだし"に興味を示し始めるそう。「だしのブレンドで生まれるのは1+1=2みたいに単純な味じゃなく、うんと深みのある味。1+1は7にも8にもなるわけ。今の若いお母さんたちは、自分が小さいときに家庭で本物のだしを食べさせてもらっていない人が多いから、そもそもこういうおいしさを知らないのよ」。日本の食卓はすでに末期状態に近いのかもしれないと、さかもとさんは憂います。

乾物を利用して簡単おいしいママの味

講座では昆布、かつお、干ししいたけのだしを飲み比べ。奥には甘味とすっぱさ、苦味のおかずが

顆粒だしより本物のだしの方が良いのはなんとなくわかってはいても、毎回は正直面倒。出がらしが生ごみになるのを嫌がる人も少なくありません。そこでさかもとさんが提案しているのが昆布水。
1Lの水を用意し、その中に細切りにした昆布を10g入れるだけ。2時間からひと晩放置しておくと、昆布の断面から旨み成分が溶け出し、やわらかな昆布の香りがするややとろみを帯びたお手軽だし「昆布水」が完成します。冷蔵庫にストックしておくとスープや煮物などのベースに使え、水溶性の食物繊維が豊富な昆布水は、そのまま飲むと腸内環境を整えてくれることも期待できます。

出がらしの昆布は工夫次第で万能な一品に。「酢漬けにしたものをサラダに混ぜてもいいし、チャーハンの具として加えてもおいしいの。昆布やひじき、切干大根などの乾物をどう扱っていいかわからないと漏らすお母さんも多いわね。でもそういうものを上手に利用して常備菜を作っておくと、お母さんが不在のときにごはんさえ炊いておけば、子どもたちはカップラーメンに手を伸ばさなくなると思う。今はどのお母さんも便利さに慣れすぎ。大根や白菜を丸ごと食べ切るにはどうしたらいいのかという工夫をまったくしなくなったわね。せっかくいただいた野菜の命。けっして無駄にせず、最後までおいしく食べるにはどう調理したらいいかなと楽しみながら考えるお母さんは本当にステキだと思うのよ」。

さかもとさんは自身のオリジナルレシピを「簡単おいしいママの味」と呼んでいます。忙しいお母さんたちの負担にならないよう、食材も手順も最低限。それでいて手抜き感はなく味はピカイチ。誰もが「これならやってみよう」と思えるものを提案しています。「子どもたちが大人になっても『お母さん、あの料理が食べたいから作ってよ』とリクエストする料理が10品でも20品でもある家庭はすばらしいと思うの」。伝授した味がいずれそれぞれのお母さんたちの味へと育ち、家庭に根付いてくれることが一番の願いなのです。


産む前から食の知識を準備する重要性

若いお母さんたちを対象とした講座。目からうろこの情報が盛りだくさん。

さかもとさんが今年から特に力を注ぎたいと思っているのが、妊娠中のお母さんたちに向けた離乳食講座です。主宰する料理教室には独身女性も多く通っていますが、彼女たちが結婚して出産し、お母さんになったときにしばしば吐露するのが「うちの子、離乳食を食べないんです」という深刻な悩み。どんなものを与えているのかと問うと、味も素っ気もない白がゆだったり野菜のペーストだったり。そんなとき解決策として、さかもとさんは昆布水を使った離乳食メニューを伝えます。

なぜ昆布なのか。着目したのはその成分にありました。お母さんが赤ちゃんに飲ませる母乳にはグルタミン酸が多く含まれています。赤ちゃんたちは産まれてからその味に慣れておいしさを覚えてきました。離乳食へとスムーズに移行させるためには、母乳の成分に近いものを自然界の中で探し、抵抗をなくすのが近道。そうひらめき、たどり着いたのが昆布でした。昆布の主成分もグルタミン酸。昆布と水から取っただしで炊いたおかゆなら、離乳食を嫌がる子もきっと食べるはずだと。「ほんの少しの塩で味付けすると、案の定モリモリ食べてくれるの。お母さんたちはなるべく味の薄いもの、塩分の少ないものにとらわれがちだけれど、けっしてそれがすべてではないのよ」 。

成長が著しい時期に子どもが好むきちんとしたものを食べさせておくことは、脳と体の健やかな発達につながります。だからこそ、食材のもつ旨みを離乳食に応用することは、お母さんたちに知っておいてもらいたいテクニックの一つ。「食べることは楽しい、楽しいから食べるという記憶を子どもたちにインプットさせるのはお母さんの使命。まだ余裕のある妊娠中に多くを学んで、自分の体づくりもしっかりしながら来るべき子育てに備えると、あわただしい毎日にも少しはゆとりが生まれるんじゃないかしら」。

味覚は幼いときに育てるのがベスト

子どもたち用に準備したワンプレート。お皿の上には味覚を磨くおかずが並んでいます。

どの講座でも、子どもたちの味覚を刺激する料理を試食用に持っていくというさかもとさん。そのときに気をつけているのが五味のバランス。旨みたっぷりの野菜スープにごはん、おかずには甘いものや塩辛いもの、すっぱいもの、苦いものを彩り良くお皿に盛り付け。なかでも苦いものは食卓に上る機会が少なく、食べ慣れていないと嫌悪感を示す子も。

苦味を教えるためにさかもとさんがおすすめするのはごまめ。立派なサイズのものでなくても、スーパーで手に入る安めの小魚で十分。それを良質なオイルでさっと揚げてごまをかけるだけで、ポリポリと食感の良い一品に。「ある講座のときに、これを初めて口にした子が苦いって顔をして一瞬嫌がったの。でも、甘いおかずや塩辛いおかずを食べていくうちに、また苦いものにも手を伸ばして。いろんな食べ物を一緒に口に入れて、口の中で味を調整する口内調味という言葉があるけれど、この行為がまさにそう。甘いものやすっぱいものを食べていくうちに、口の中が苦いものを自然と欲したのね」。

離乳食を始める生後5ヵ月くらいから舌を鍛えておくときちんとした味覚が育つと、さかもとさんは語気を強めます。「苦くて口から出してもいい。すっぱくて嫌だと言ってもいい。でもお母さんは必ず一度は五味を子どもの口に入れさせておくこと。この作業はいわば味覚のスタートボタンを押すことなの。それぞれのスタートボタンを1回押しておくと、その味覚の経験が記憶に蓄積されていく。ビールやコーヒーの苦味を大人になってから突然おいしく感じたりすることがあるでしょう。それは小さいときに"苦い"のスタートボタンがきちんと押されているからなの」。

講座に通う子どもたちは皆、食に対する好奇心が旺盛。お母さんの袖を持って早く食べさせてと催促する姿を見るのが、さかもとさんの喜びでもあります。味覚が敏感だと、食事の時間がより楽しく豊かになることは多くの大人が経験していること。子どもも例外ではありません。


身近なもので彩り豊かな食卓を演出

子どもたちがおいしく食べるために、さかもとさんが心がけていることがもう一つあります。それは、盛り付ける器選びやテーブルセッティングにもひと手間をかけること。カラフルな色を好む子どもたちの食卓に彩りを添えるアイテムとして、とても重宝するのがペーパーナプキン。ランチョンマット代わりに敷くとテーブルが一瞬にして華やかになります。汚れたらそのまま捨てられ、気軽にいろんな柄が変えられるのも魅力。たった1枚で気分が高まります。また、毎食同じ食器を使うのもナンセンスと忠告。お茶碗やお碗以外は、和・洋・中の料理に合わせてさまざまな色や形の食器を使うと、子どもたちの食欲が目に見えて変わってくるそう。

「食器はできるだけ陶器のものを選んで。100円ショップでそろえられる品なら、たとえ子どもに割られてもそんなに惜しくはないでしょう。もしも子どもが食器を割ったら、頭ごなしに怒鳴るのではなく『お皿さんにかわいそうなことをしたね。手を切るから危ないよ』と声をかけて、物を大事にする心や危険なことを教えるの。一度では身にならないから、日常生活の中で少しずついろんな知識を刷り込んでいくのね」。こうしてさかもとさんが今、多くの人に伝え教えていることは、すべて自身の経験から培われたものです。

「ファースト箸」をあなどるなかれ

絵付けを施し完成した箸。特別感を高め、食事をするのが楽しくなりそう。

さかもとさんが行っている食育活動はさまざまありますが、なかでも興味深いのがMy箸づくり講座。これは、香りの良いヒノキの端材を使って世界で一つの箸を自作するという内容。正しい箸の使い方や食事の作法なども併せて指導し、子どものために親が箸を作ることもあります。

日本の箸は他国のものより先が繊細。細やかな動きができるメリットをもつ一方で、子どもたちにとっては扱いにくいのも事実です。最近は、箸に早く慣れさせたいがために、親が子どもに便利なトレーニング用の箸を渡すこともありますが、多少使いにくくても大人と同じ2本に分かれた箸を最初から与えるほうがいいというのがさかもとさんの持論。2本の箸を巧みに操ることで手指の筋肉を鍛え、正しい箸づかいをマスターすることが手先の器用さを養ったり、脳のトレーニングにもつながるそう。また、きょうだいのおさがり箸を与えてしまうこともついやりがちですが、箸が長すぎるとどこを支点にすればいいか要領がつかめず、握り箸を誘発することにもなりかねません。まずはその子の手にしっくりと納まるサイズを与えること。また、食事中の子どもの様子を観察し、手が大きくなったと感じたら成長に合わせて箸の長さを変えていくことも大事。ファーストシューズが子どもの足をつくるのに重要なように、ファースト箸にも十分気を配ってほしいとさかもとさんは語ります。


食育活動へとつながる2つの経験

自宅で開催する料理教室には、若い女性たちも多く集います。

現在は食にまつわる仕事をフィールドとするさかもとさんですが、かつては音大に通い、声楽家を目指していたこともあるという異色の経歴の持ち主。まさか自分が食育を伝える立場になるとは想像もしていませんでした。しかし振り返れば、今の活動へとつながる大きな原点が二つあるといいます。

一つは、16歳下の妹が産まれて10代のころから母とともに子育てを経験したこと。もう一つは、声楽家としての学びを深めるために師事していたイタリア人マエストロとのあるエピソードでした。「レッスンが終わるとマエストロのご自宅で、ご家族と一緒にランチやディナーをいただく機会がたびたびあったの。みんなでテーブルを囲むひとときは、とてもにぎやか。食事中は子どもたちがその日にあった出来事を両親に報告し、大人の見識から『それはダメ』と怒られている姿もよく目にしたわ。食事中のマナーについても注意されていて、その光景を眺めていた私にあるときマエストロが『la table e una scuola(テーブルの上は学校なんだよ)』と教えてくれたの。食卓は子どもたちにとって学びのある場所でなくてはいけないと」。この言葉が、さかもとさん自身が幼いころに体験したことをふと呼び起こしました。

「口福な家庭は幸福なり」が意味すること

「そういえば私も小さいころに、母や祖母から食事中のマナーや食べ物に対してうるさく言われていたなって。いつもよりちょっといい器におかずを盛ってもらったときは『これはいい器やからね』と大事に扱うように念を押されて、そのたびにドキドキしていたわ。ごはん粒には神様がおられるからと、お茶碗に一粒も残さないのが当たり前。出された食事を残すには理由が必要だったし、食べ物がいかに大事かということを徹底して子どもに教える家庭だったのよ」。

このような経験を通して、「食育は食卓育である」というさかもとさんのベースとなる考えが生まれました。家族という最小単位の社会の中で子どもは多くを学び、その学びの場として親と囲む食卓は理想と唱えます。しかし今は家族そろってごはんを食べることもままならない時代。だからこそ、さかもとさんが日ごろから大事にしている"口福な家庭は幸福なり"という言葉が心に響きます。「贅沢なものでなくてもいいの。おいしいものをおいしいねと言い合いながら食卓を囲める家庭は、やっぱり幸せに満ちているのよね」。エネルギッシュで多弁な語り口に、日本の心を伝える食卓を広げたいという情熱の強さが見えました。

(2015年1月 取材・文 岸本 恭児)