魚の棚商店街

商店街の衰退が進む昨今。昔ながらの商いを大事にし、地元に愛され続ける商店街があります。兵庫県明石市にある「魚の棚商店街」は、今日も街の台所として人々の暮らしに寄り添っています。

明石のブランド食が勢ぞろい

色鮮やかな大漁旗が掲げられ、活気ある魚の棚商店街。昼網の時間帯は買い出しに訪れた主婦たちでにぎやかです

兵庫県明石市は東経135度の日本標準時子午線上にある街。瀬戸内の温暖な気候に恵まれ、海岸沿いからは間近に明石海峡大橋や淡路島が望める風光明媚な地域です。人々の暮らしは昔から豊かな海とともにあり、水産業が盛んです。県内トップクラスの生産量であるのり、しっかりとした歯ごたえとうま味が自慢のタコ、上質な身を誇る鯛など、明石で獲れる海の幸は全国的にも人気がある食材。高値で取り引きされています。優れた漁場の発展と街のにぎわいを支えているのが魚の棚商店街です。

魚の棚商店街のアーケードは全長350m。鮮魚店を中心に練り製品店、乾物店、青果店、飲食店など約110店舗が立ち並び、お客さんを呼び込む威勢の良い声が響いています。

市民の頼れる台所として

「皮をむきます」「すみぬいてます」とすでに下処理済みであることを明記し、買い手の興味を誘います。

魚の棚商店街が誕生したのは今から400年ほど前のこと。明石城の築城とともに宮本武蔵が城下町の町割りを行った際に造られたと伝わっています。明石城からほど近い場所に位置し、地域の人々の台所として発展してきました。明石市民には「うおんたな」の愛称で親しまれている魚の棚。その昔、魚商人たちが軒先に魚を乗せた大きな板を何枚も並べて商売をしていたことからこの名前がついたそうです。

魚の棚が生まれた当時は、鮮魚店と練り製品店、塩干し物店が中心。1700年代中ごろには56軒の鮮魚店と50件の塩干物店がひしめき合っていました。戦中は幾度となく戦火に見舞われ焼け野原に。配給制度が敷かれた戦後は思うように商売ができなくなったこともありましたが、店主らの努力で活気は徐々に上向き、自由市場として復活を遂げます。ところが1949年に大火災が起き、自由市場は消失。商売をやめる店も出てきましたが、1951年には道路整備が進み、買い物がしやすい環境に整えられ再スタートを切りました。戦後は魚が飛ぶように売れたころ。早朝は卸売が中心、昼からは近所の人を相手に小売をし、人の流れが途切れることがありませんでした。


魚の棚の全盛期と転換期

正午になると、どこの魚屋も昼網と書かれた魚を並べ始めます。活きが良すぎてトレーから飛び出してしまう魚も。

現在、魚の棚西商店街振興組合の理事長を務める瀧野幹也さんは、子どものころに見た魚の棚の風景をこう語ります。

「私は昭和41年生まれですが、そのころは朝の商売が中心でとにかく毎日にぎやかでした。すぐ近くに卸売市場があった影響で、魚の棚商店街の店もまだ日が昇らない3時や4時くらいから開けてましたよ。うちは今は八百屋をやってますけど、当時は豆腐屋を営んでいて、小さいころは朝早くから手伝わされました。卸売を兼ねている店が多かったので、魚の棚に行けば鮮度のええもんが安く手に入ると、田舎の小売店や飲食店の方々が買い付けに来てました。忙しい朝を終えると、昼からは比較的ゆっくり。夕方には店を開けながらのんびりと将棋をさしている店主もいたりして、ええ時代でした」。

順調にきた商売も、1977年に卸売市場が魚の棚から離れた場所に移転すると激変。魚の棚周辺で卸売をしていた問屋の多くがそちらへと移り、朝の客足は徐々に減り、残された商店は商売の形を変えざるを得なくなりました。「このまま朝早くに店を開け続けてもお客さんは減っていくばかり。生き残るには昼間の小売を主体にしていくしかなかったんです」。幸いにも駅前という恵まれた立地や明石海峡大橋の開通が後押しし、市民の台所としての役割だけでなく、観光地としても繁栄。逆境をうまく乗り切ることができました。このころから、明石独特の昼市にも一層注目が集まるようになります。

珍しいせりのスタイル

お話をうかがったのは魚の棚西商店街振興組合の理事長を務める瀧野幹也さん。幼いころから魚の棚を見続けてきた人です。

魚の棚商店街を訪れる楽しみの一つといえば昼網の魚。明石では11時半ごろから13時、14時くらいまで市内2ヵ所で昼市が開かれ、昼網のせりが行われています。これだけでも全国的には珍しいことなのですが、さらに興味深いのがせりのスタイル。魚の棚にある魚屋の多くがせり権を持ち、直接せりに参加しているのです。

通常の流通ルートでは、全国各地の市場から仲卸業者などをいくつも介し、スーパーなどの小売店に並ぶのが一般的。しかしこの方法ではコストがかさみ値が上がるうえ、食べるころには鮮度が落ちてしまうことは言うまでもありません。一方、明石では仲卸などを通さず、水揚げされた魚がその日のうちに小売店に流れ、消費者の元へ届けられます。流通経路が最短なので鮮度と味を落とすことはありません。

けれどもこの流通スタイルはどこでもまねできるわけではなく、漁港や市場の近くに魚の棚商店街という条件の良い売り場が備わっている明石だからこそ可能だとも言えるでしょう。

人気が高い昼網の魚

昼市で競り落としたであろう鯛を店前で洗っている店主に遭遇。さすが明石の鯛。丸々と太って立派です。

昼市でせり落とされた魚はすぐさま魚の棚商店街に流れ、正午ごろになると「昼網」の札が掛けられて次々と店頭に並べられます。待ってましたと言わんばかりに買い求めるのは近所の主婦たち。店前に人だかりができているところもあります。

トレーの上でピチピチと跳ねる魚をのぞき込んでいると、「刺身にしても煮つけにしてもおいしいで。お好みで料理もしますけど、どうですか?」と声をかけられました。最近は家での調理の手間が省けるよう、下処理してくれる魚屋が増えたと言います。「売り手がくわえたばこで接客をしていた時代も今は昔。商売に凄みや迫力があったころは、お客さんによっぽどの度胸がないと気軽に声をかけたり値切ったりすることはできんかったね。今は店頭に立つのも女性が多くなって商売がずいぶんソフトになりましたよ。切り身などに加工して売ることも昔やったら考えられないことでしたけど、これも時代の流れやね。魚離れもあるし、サービスしていかないと売れなくなりましたから」。

時代は変わっても人気が高い昼網の魚ですが、買うときはちょっとしたポイントもあります。現在、魚の棚の魚屋で扱っている全ての魚介が昼網とは限りません。多様化するニーズに応えるため、店主が全国から確かな目利きで仕入れた魚を並べる店もあります。“明石のまえもん”が目当てなら、店頭で訪ねてから購入したほうがいいかもしれません。


地元が誇る多彩な海の幸

鯛をさばいた後のあらはお値打ち。運よく出合えれば絶対に“買い”です。お吸い物や煮物にぴったり。店頭で揚げているアナゴの天ぷらやタコの煮つけなどの総菜は、観光客がお土産に買っていくことも。

明石の海は食材の宝庫。その代表格といえばやはり鯛でしょう。地元を代表するブランド食材で、魚の棚を歩いていても立派な姿が目に留まります。明石海峡で獲れる鯛は明石鯛と呼ばれ、豊富なえさを食べ速い潮の流れにもまれて育った身は、程よく引き締まり食べ応えがあります。春先から初夏にかけて水揚げされるものは桜鯛、秋に獲れる見た目も味もふくよかな鯛は紅葉鯛と言われ、高級食材として扱われています。

魚の棚の飲食店で寿司のネタや丼ぶり、天ぷらなどにして提供されているアナゴも明石の名物。明石産のアナゴは年中味にブレがないと評判です。地元ならではの味は、冬に旬を迎える大振りなアナゴ「伝助(でんすけ)」。料理しやすい一般的な大きさが約200gであるのに対し、伝助は300g以上もあります。大きくなりすぎると市場価値が下がり、調理に手間がかかると昔は嫌がる料理人も多かったようです。けれども今では調理法も広がり、魚の棚商店街にある飲食店では伝助を目玉メニューに客を呼び込むところが増えました。脂が乗りとろけるような味わいは、一度食べるとやみつきになります。

これぞ絶品! 明石タコ

まえもんの活きを味わうなら魚の棚商店街にある鮨屋に入ってみるのもおすすめ。甘さが際立つ生ダコは絶品。

瀧野さんが「実は鯛よりブランド力があるんです」と教えてくれたのがタコ。明石海峡付近で水揚げされるマダコは明石ダコと言われ、兵庫県が漁獲量日本一を誇っています。明石ダコは身がぎゅっと締まりプリッと肉厚。甘味とうま味を備え、非常に評価が高い特産品です。そのおいしさを手軽に味わえるのが、魚の棚商店街に何軒もある明石焼き専門店。玉子焼きの名でも親しまれている市民のソウルフードです。店ごとに出汁や生地の味、タコの歯ごたえが違ったりもするので、数件を食べ比べてみるのも魚の棚の楽しい歩き方。そのほかにも、うま味が染み渡ったタコ飯や歯ごたえ十分のタコのぶつ切り、やわらかい煮つけなど、産地ならではのタコ料理を存分に味わうことができます。

明石ではタコのおいしさをもっと広めていこうと、7日2日をタコの日に制定しています。夏至の日から数えて11日目ごろにあたるこの日は、暦の上で半夏生(はんげしょう)。昔は田植えの労をねぎらい、稲がしっかり根付くようにとの願いを込めてタコを食べる習慣がありました。タコの日は明石市内の飲食店ではタコを使ったメニューが並び、小学校の給食でもタコ料理が出るそう。口いっぱいに広がる磯の風味を噛みしめると、豊かな海の恵みに感謝せずにはいられません。

【コラム】さんまは獲れないのに名物?

瀬戸内海は恵まれた漁場でほとんどの魚が獲れますが、さんまは水揚げされません。けれどもなぜか、明石はさんまの開きの出荷量が日本一なのです。実は明石は昔からイワシなどの加工に優れた技術を持っていました。その技がさんまにも応用されたのだそうです。まさか、はるか遠くの海域で獲れたさんまが明石の開き加工場へと流れ、全国各地で販売されていたとは。ちなみに、地元の人はさんまの開きのことをサイラと呼び、街の隠れた名物となっています。


瀬戸内の旬を彩る海の恵み

まだ寒さは残りながらも、少しずつ春の足音が聞こえ始める2月終わりから3月初め。瀬戸内海はいかなご漁が解禁を迎えます。特に明石海峡ではいかなごの新子漁がさかん。全国でもトップクラスの水揚げ量です。新子とは生まれたばかりのいかなごのことで、兵庫を中心とした関西での呼び名。新子の中でも漁が始まった最初のときにしか獲れない稚魚をコナ、親魚になるとフルセと呼び、成長過程で名前が異なるのが特徴です。人々は徐々に脂が乗っていくのを楽しみながら、移り行く季節に心を重ねます。

いかなごの新子漁は期間が短く、解禁日からおよそ1ヵ月程度。この時期はいかなご漁の漁船で漁場がにぎわいます。早朝、港を出た漁船は2隻が一組となって網を曳く船曳網漁で大漁を狙います。網を揚げると中には新子がどっさり。鮮度を保ちながら陸揚げし、すぐにせり場へと運ばれ入札を開始。初物には縁起良く高値が付くのが通例で、落札後はすぐに市場へと送り出されていきます。

昔は大漁が続いたいかなご漁も、ここ数年は低迷ぎみ。海の中の環境が変わり、水揚げ量が減少傾向にあります。そのため、漁を行う時間を制限したり禁漁日を設けたりして、いかなごの保護に努めています。

シーズン中はいかなご一色

量り売りされていたいかなごのくぎ煮。ベストシーズンを狙って食べたい食卓のお供です。

いかなごの味わい方は産地によってそれぞれですが、瀬戸内海周辺に暮らす人々にとってもっともポピュラーな食べ方と言えば釜茹でとくぎ煮です。特にくぎ煮は春の風物詩。兵庫を代表する家庭料理でもあります。炊き方や味は家々によって少しずつ違いますが、しょうゆ、酒、砂糖などでさっと煮つけるのがオーソドックスなレシピ。甘辛い味がアツアツのごはんにも日本酒にも合う一品です。身があまりに小さすぎると煮崩れてしまい、大きすぎると口当たりが悪く脂が回りすぎると好まない人も多く、主婦たちがこぞって買い求める人気のサイズは3~4cm程度とか。シーズン中は大鍋で何度も炊く人もいて、我が家の自慢の味を近所に配ったり、遠方の親戚に送ったりする姿をよく目にします。

「いかなご漁のシーズン中は、くぎ煮を炊くお客さんに合わせて魚の棚の雰囲気ががらりと変わります。魚屋の店頭にはその日水揚げされた新鮮な生のいかなごがずらりと並ぶのはもちろん、うちみたいな八百屋では味のアクセントと臭み取りとして一緒に炊き込むショウガをメインに据えます。酒屋はしょうゆなど味付けに使う調味料を目立つ場所に陳列してますし、この時期ばかりは通りのどこを見てもいかなご一色になるんです」。保存用の容器をどっさりと仕入れて売る店もあるとか。「天ぷら屋さんなどでは自分の店で炊いたくぎ煮を売っているので、いかなごを調理する匂いと生のいかなごの匂いとが入り混じって、なんとも言えん香りが通り全体に漂っています。私たちにはすっかり慣れた季節の光景ですが、初めて来られたお客さんはびっくりされるかもしれませんね」(笑)。

今後も地元の人を大事に

駅前のリニューアルに伴い魚の棚商店街へ通じる歩行者用デッキが設けられ、天候の悪い日も行きやすくなりました。

ここ数年、急速な駅前開発で進化が目まぐるしい明石の街。駅から魚の棚商店街へのアクセスもスムーズになり、新たな人の流れが期待されるところです。その反面、多くの商店街が抱えている後継者問題やスーパー・大型ショッピング施設との市場競争も無縁ではありません。今後の商店街の在り方を瀧野さんはどのように考えているのでしょうか。

「最近は魚屋や八百屋などの物販の店が減って、立ち飲み屋や居酒屋などの飲食店が増える傾向にあります。これについては組合でも賛否両論。商店街全体ににぎわいはあっても形は変わってしまいますから。魚屋が元気だったころが一番魚の棚らしいとは思いますけど、もうあの時代に戻ることは難しいでしょうね。大阪の黒門市場みたいに外国人観光客を意識した商売で小売に活気があるのは、正直うらやましい気持ちもあります。でも魚の棚商店街はやっぱり地域密着が第一。地元の人を大事にする商売をこれからも長く続けていけたらと思っています」。

(2017年1月 取材・文 岸本 恭児)