古都、平城京の風薫る世界遺産 薬師寺(前編)

青丹(あおに)よし 寧楽(なら)の都は咲く花の (にほ)ふがごとく 今盛りなり」 と詠われた奈良の都、平城京。
色とりどりに咲き誇る花にたとえられた1300年以上前の都に思いを馳せるとき、現代の薬師寺にその華やかで壮麗な姿を見ることができます。しかし、今にあるこの姿はほんの40年前には存在しないものでした。

長年、宗教を通じて世界平和活動に寄与し、戦後の薬師寺復興において中心的役割を果たされた、薬師寺前管主(かんす)で現在は薬師寺長老になられた安田暎胤猊下(げいか)に、これまでの薬師寺についてお話を伺いました。

安田 暎胤 (やすだ えいいん)

昭和13年 岐阜県岐阜市生まれ
昭和25年 薬師寺に入寺
昭和37年 龍谷大学大学院文学部修士課程修了
昭和42年 薬師寺執事長・法相宗宗務長に就任
平成10年 薬師寺副住職に就任
平成15年 薬師寺管主・法相宗管長に就任
平成21年 8月より薬師寺長老となられる
現在 薬師寺長老
(公財)世界宗教者平和会議 日本委員会 評議員
日中韓国際仏教交流協議会 常任副理事長
(公財)国際仏教興隆協会 理事長

■著書 
『佛の道を思う朝』(講談社 1990)『玄奘三蔵のシルクロード シリーズ』(東方出版1998-2002) 『心の道しるべ』(講談社 1999)『この道を行く』(講談社 2003)『人生の四季を生きる』(主婦と生活社 2003)『住職がつづる 薬師寺物語』(四季社 2004)『花のこころ』(講談社 2007)『まごころを生きる』(大法輪閣 2008)『五つの心』(主婦と生活社 2008)他

天武天皇9年(680年)に創建された薬師寺は、幾度かの火災で東塔(国宝)と東院堂(国宝)のみを残して焼失しました。しかし、高田好胤管長(昭和42年当時)を盟主とする一山僧侶の献身的勧進により復興再建されることとなり、現在の薬師寺においては1300年前の姿を取り戻し、活気溢れる平城京の壮麗な姿を今に伝えています。その高田管長と二人三脚の如く31年間、平成10年に高田管長の遷化後も伽藍復興に尽力され、管主(最高位の僧職)に就任、現在は薬師寺長老となられた安田暎胤猊下(げいか)。焼失した金堂を再建する為、"お写経による金堂復興" を高田管長に提案され、また多くの反対を受けた西塔再建の先頭に立ち、復興の意義や薬師寺の将来ビジョンを述べ、結果多くの賛同を受け許可を得るに至りました。池の向こうに若草山を背景とし、金堂を中心に東塔、西塔の並び建つ景観はよく知られています。更に、歴史的風土保全特別地区に指定されている薬師寺境内において、許可が下りない新築の建設も安田ご長老が自ら説得され、『西遊記』の主人公である玄奘三蔵のご頂骨の一部を安置する玄奘三蔵院の建設を成し遂げられました。 平成10年(1998年)より、薬師寺はユネスコ世界遺産として登録されています。

法相宗大本山 薬師寺の起こり

奈良時代に法相宗(ほっそうしゅう)を含む6つの宗派が中国から伝わって来まして、それを南都六宗(なんとろくしゅう)といいます。それから平安時代になりまして、天台宗(てんだいしゅう)と真言宗(しんごんしゅう)ができたんです。昔、薬師寺ではその2つの宗も含めた8つの宗を兼ねて学ぶことができる八宗兼学の道場として勉強していたわけです。ですから、薬師寺は一宗一派を標榜(ひょうぼう)※1 したことがなかったんです。しかし、明治5年に太政官布告(だじょうかんふこく)が出まして、宗を標榜するようにということで、東大寺は浄土宗に入って、薬師寺と法隆寺と唐招提寺は真言宗に入りました。それで、急なことだったからそうなったんですけれど、歴史的におかしいのではないかということで独立運動を起こしまして。それで、明治15年に東大寺は華厳宗(けごんしゅう)に、薬師寺と興福寺と法隆寺は法相宗に(現在、法隆寺は聖徳宗(しょうとくしゅう)として独立)、唐招提寺は律宗(りっしゅう)ということで3つの宗が出来たんです。だから、一宗一派になったのはまだ130年くらいの歴史しかないんです。 薬師寺のみならず、東大寺も法隆寺も興福寺もそうですが、亡くなったらお葬式は別の寺の僧侶に来てもらってやります。お葬式は頼まれてもお断りをしてるんです。参列はしますけど、導師をつとめない。それは昔からの慣わしみたいなもんですので、境内には墓がありません。薬師寺には檀家がありませんからね。

※1 標榜(ひょうぼう)・・・主義・主張などをはっきりと掲げ示すこと。

薬師寺の結縁者の場合は一代きりで終わってしまう方が多いですね。新しい宗教でもね、一生懸命に親が信仰していても子どもは関心がないことがあるでしょ。檀家寺の場合は墓があるから結ばれてますけど、それももうこの頃は転勤とかで帰らなくなってますね。だから、無縁仏になってしまう場合もあるんです。 宗教は信仰の自由がありますから、個人的にご本人が薬師寺が好きでも、あまりのめり込んでしまうと子どもは反発します。薬師寺の場合は強い信仰ではないのでそういったことも少ないとは思いますが。歴史文化に対する興味を持っておられる方なんかは、薬師寺は歴史と宗教がミックスされていますから熱心に来られる方もありますね。

禅宗の僧侶は特に僧堂の師家(そうどうのしけ)※2 のような、弟子の教育に専念なさっている方がおられますな。そういう方は外部との交渉は絶って、修行をなさっている方も極々稀ですがおられます。もう今は少ないですけれど。 日本人は無宗教の方が多いと言われておりますが、実際には救いを求めている方が多いんです。薬師寺は檀家がないから僧侶が誰にでも話しをしますけれど、お葬式のときに檀家寺の導師さんはお経をあげると帰ってしまう場合が多いでしょ。そうじゃなしに、たとえばお経を読む前でもいいからその場でミニ説法をしたら良いと思います。一番聞く耳を持っているのがお葬式のときですから。僧侶が今からあげるお経はこういうお経であるとか、人間はやがて死んでいくこと、″散る桜 残る桜も 散る桜″ですから。やがてみんな死んでしまいますが、生きていることの有難さや人生の生き方をその場で語るようにすると良いと思います。

※2 僧堂の師家(そうどうのしけ)・・・僧堂とは、禅宗において僧侶が修行をする場。師家とは、指導する力量を具えた者をさす尊称。


貧しい寺だった薬師寺の復興

薬師寺1300年の歴史の中で、この50年の間に大きな復興事業をやりました。それは高田管長というリーダーシップを持った人が住職を勤めたお陰です。寺の外に出て行くのは高田管長で、中で様々な企画をし、寺全体のことを取り仕切るのはわたしの役目でした。復興事業は歴史的なことです。それと、お写経はもう45年続いております。人数にしたら100万人くらいですか。数にしたら800万巻くらいです。一人で何回も書きますから。そうやってお写経をしていただいた納経供養料を薬師寺復興事業の工事費に充当しました。そういう発案や仕組みはわたしがこしらえました。勧進に回ったのは高田管長です。

昔の薬師寺は、昭和13年の航空写真が残っているんですが、小さな林の中に東塔がポツンと立っていて、あとは江戸時代に建築された仮の金堂と講堂があるだけでした。今は東塔の修理をしていますし、また食堂(じきどう)跡の発掘をしていますから、また薬師寺は変わります。ここ50年で一番奈良の景色を変えたのは薬師寺です。薬師寺は無かったものを復興したわけですから。西塔を建てるときでも反対があったんです。景観を破壊すると。それで、わたしは薬師寺を元に戻そうと、古くしているんだ。あるべき姿に戻しているだけだと主張しました。

現在、国宝の東塔は2008年から2018年の計画で改修工事が行われています。今回は、安田ご長老のお計らいで、工事中の東塔に巡らされた足場を登り、修復作業を拝見することができました。

(北川参与さんのご説明)
現在は工事中ですが、東塔の上には「水煙(すいえん)」がありましてね、西塔も同じものが乗っていますが・・・その水煙には天女が彫刻されています。1枚に6体。ですから、東西南北で24体。それで、一番下で笛を吹いている童子の部分は、昭和42年から48年まで葉書が7円だった時代があるんですが、その7円葉書のスタンプのところにデザインしてあったのがこの水煙の笛吹き童子です。水煙の軸には薬師寺の塔さつ銘と言って、薬師寺を建立した縁起が「巍巍蕩蕩(ぎぎとうとう)たり薬師如来、大いに誓願を発し、広く慈哀を運(めぐら)す」等々と書かれてあります。それによって、薬師如来であることが証明されているんですね。

今後、すべての解体に2年、調査に2年、そしてまた組み直すのに2年かかるようです。柱も外して地下の調査もする予定です。

塔の内部には釈迦八相(しゃかはっそう)お釈迦様の一生の物語を、東塔に前半の4つ、西塔に後半の4つ、合わせて8つですね。入胎(にったい)・受生(じゅしょう)・受楽(じゅらく)・苦行(くぎょう)・成道(じょうどう)・転法輪(てんぽうりん)・涅槃(ねはん)・分舎利(ぶんしゃり)。両方の塔でお釈迦様を祀(まつ)っております。また、西塔の心柱の下にはお釈迦様の仏舎利を安置しているのですが、現在行なっている東塔の解体中にも仏舎利が見つかり調査をしています。(塔の中心部にある柱の一番上に木箱を納めるために加工が施されており、仏舎利はその木箱の中に安置されています。)

豊臣時代より400年、歴代住職の悲願であった″金堂復興″は、宮大工 西岡常一棟梁※3の設計により昭和46年に着工し、昭和51年に白鳳時代様式の本格的な金堂として復興されました。

金堂は、本当は100%木造にしたかったんですが、一度火に遭っていますから、また火事があったら大変だということで、内部だけ鉄筋なんです。煙が出ると鉄の扉が油圧式になっていて下りて来ますから、密閉されて火が回らないということです。周りの資材は若い木で1000年、古木で2000年以上の樹齢の木を使っておりまして、ここを建ててくださった西岡常一棟梁の説によると、耐久力は1000年の樹齢の木には1000年以上あるようです。薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主で、健康をお守りいただく仏様として生きている間に我々を救うために働いていらっしゃるということでありまして、菩薩の時に12の大願(疾病を治癒して寿命を延べ、災禍を消去し、衣食などを満足せしめ、かつ仏行を行じては無上菩提の妙果を証らしめんと誓い、仏に成ったと説かれる。)を叶える為に修行をされたということで、私たちは毎朝5時に勤行(ごんぎょう)をいたしまして、祈願をさせていただいております。火災に遭うまでは、仏像には金が塗られてあって金色に輝いておられました。

※3 西岡常一棟梁・・・法隆寺の大修理なども手掛けた奈良県を代表する宮大工で、薬師寺とも係わりが深く、その生涯を描いた映画「鬼に訊け」(2012年2月公開)には、安田ご長老もご出演されています。

その昔、岡倉天心(おかくらてんしん)さんという方が、「君たちは薬師寺の薬師三尊像をまだ拝んでいないから幸せだ。なぜなら、初めて見た時の感動をこれから得る幸せがあるのだから。」という言葉を残しています。日本の仏像を語る中で、最も優れた仏像として崇められているわけです。皆さんから納経いただいたお写経は、ここの2階や塔などに納めております。

飛鳥時代を代表するお寺は法隆寺、白凰時代を代表するお寺は薬師寺、天平時代を代表するお寺は東大寺、興福寺、あるいは唐招提寺なんですが、白凰時代の代表として薬師三尊像があるわけですね。薬師如来が座っておられる台座には珍しい模様がありまして、一番上が葡萄唐草文様(ぶどうからくさもんよう)といって、ギリシャ文化の影響を受けています。その下の小さな箱に入っている模様が蓮の花を上から見たような蓮華文様、これはペルシャの文化の影響を受けています。それから、インドの蕃人(ばんじん)が四方にありますけれど、力神(りきしん)、支えている神様ですね。これはインドの影響です。一番下には東西南北の四方四神と申しまして、東が青龍(せいりゅう)、南が朱雀(すざく)、西が白虎(びゃっこ)、北が玄武(げんぶ)。中国の道教の影響なんですね。ギリシャ、ペルシャ、インド、中国、その時代の世界の文様がここに描かれております。

昔、僧侶は掃除をするときにだけしかお堂の中に入れませんでした。お堂は言わばお厨子(ずし)※4みたいなものですので、お堂の外から拝んでいたんです。なので、仏様の目線もずっとお堂の外の方に向いておられます。台座の下の床に使われている白い石は大理石です。この当時にすでに用いられていたということですが、白いのと少し古色めいたのがありますが、昭和30年代に修理したときに傷んでいるのは換えました。同質の山口県から取り寄せまして作ったわけなんです。

※4 厨子・・・仏像,仏画,舎利,経典などを安置するいれもの。

この金堂の天井には宝相華が一枚一枚全部に描かれてあります。火災に遭った際に、左側の月光菩薩様が倒れて、手から手に伝わっている衣文(えもん)が折れています。それで、薬師如来様の腕にも傷がついたのですが、昭和37年に修理いたしました。

11月13日は法相宗の高祖・慈恩大師基の正忌日にあたり、大講堂で法要が行われました。薬師寺と興福寺の二寺で、 法要である「慈恩会(じおんね)」が1年交代で毎年行われています。

創建当初、この大講堂には幅7m高さ9mの阿弥陀如来の曼荼羅がかかっていたんですけれど焼けてしまいました。現在は、西院弥勒堂にあった弥勒三尊像を安置しています。本尊と脇侍(わきじ)の間におられる2体の僧侶の姿は、中村晋也(なかむらしんや)先生に作っていただいた無着菩薩と世親菩薩の像です。文化勲章をもらった彫刻家です。この大講堂が建つ前は、江戸時代に建てられた仮の講堂があり、現在の半分くらいの規模でした。

昔、仏像というものができるまでは、仏足石や菩提樹、法輪などそういったものをお釈迦様として拝んでいたんです。この仏足石は、お釈迦様が初めて説法されたインドのサルナートという場所から模様だけを持ってきたんです。中国の王玄策(おうげんさく)という特使がインドに行って写してきたんです。これは日本最古の仏足石で、現在は国宝になっています。


大唐西域壁画殿の絵の秘密

玄奘三蔵院の玄奘塔には、玄奘三蔵のご頂骨(ちょうこつ)、頭の骨を納めています。玄奘三蔵がインドまで行かれた目的は、唯識論(ゆいしきろん)を学ぶために行かれたんです。その唯識論というのは法相宗の根本経典なんです。その教えに則って、昭和46年に分骨していただいたんです。あの三蔵法師は西遊記の主人公で有名ですが、孫悟空など動物が出てきますから、架空の人物やと思われておりますが、そうではなく実在の人物だということで、もっともっと顕彰しなくてはいけないんじゃないかと思いました。そこで平山郁夫先生に壁画を描いていただいて、大唐西域壁画殿でいっそう顕彰しているわけです。 この玄奘塔の正面に「不東(ふとう)」と書いてあるのは、玄奘三蔵が西へ西へ、唐(東)の方からインドへ行ったもんですから、目的を達成するまでは一歩たりとも東へ戻って来ないと、「東せず」という誓いを立てて行かれたんです。元々、玄奘三蔵院は無かった建物で、復興ではなく全く新しいものですから建築許可が難しかったんです。薬師寺自体が特別史跡になっていますから勝手なものは建てられないんですが、特別に許可をいただいて建てたんです。

玄奘三蔵院の玄奘塔北側にある大唐西域壁画殿には、平成12年(2000年)12月31日に平山郁夫画伯が入魂された、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」が祀られています。― 安田ご長老が壁画のご説明をしてくださいました。

入口のこの絵は、西安(当時の長安)の大雁塔(だいがんとう)なんですが、玄奘三蔵が長安を出発するときにはこの塔(大慈恩寺)はまだ建っていなかったのですが、帰って来られた3年後にこれが出来てました。ここで持ち帰った経典を翻訳されたわけです。この壁画の構成は七画面からなっておりまして、朝の風景から午前中、お昼、夕方、夜というふうに一日の流れになっています。玄奘三蔵がインドへ向かう途中、タクマラカン砂漠で倒れてしまって、意識不明になったんですけども、神様のお告げがあって目を覚まして立ち上がって行くわけです。そして、高昌故城(こうしょうこじょう)という・・・今はもう廃墟ですけれど、立派なお城がありまして、そこで麹文泰(きくぶんたい)という王様の援助を受けたんです。そして、ここまでは一人旅だったんですけれど、ここからは大勢の従者を連れて、それでインドまで行かれるんです。 その頃は唐の国の配下だったんですけども、帰ってきたときには謀反を起こしたということで、この城が唐に滅ぼされてしまいました。行くときは必ずもう一度ここに戻って来るという約束で出たんだけども、滅びたということを聞き、ここには立ち寄られなかったんです。

この真ん中のやや左側にあるのはエベレストですね。実際はこの山は登っておられませんけども・・・ご覧になったとは思います。

この絵はバーミヤンですね。今は無きバーミヤンの石の大仏さんですけども、東の大仏も西の大仏も破壊されてしまいまして、わたしは昭和39年に3ヶ月の行程でアフガニスタンへ行きまして、3週間ほどバーミヤンにおり、ヒンドゥークシュ山脈を馬で越えました。玄奘三蔵は北から南へ来られましたが、わたしは南から北へ行きました。その頃はまだ、大仏さんは破壊されておりませんでしたが、21世紀の最初に破壊されてしまったんです。

最後のこれは、玄奘三蔵が勉強をされたナーランダ大学と月の絵です。この絵に、人物が小さく描かれておりますでしょ。高田管長はこの作品をご覧にならずに亡くなってしまわれました。平山郁夫先生が申し訳ないということで、ここへ高田管長を入れますということで描いて下さったんです。玄奘三蔵の姿だと思っている方がいらっしゃるかもわかりませんが、これは高田管長なんです。ほとんど人物のない絵だけども、ここにひとりだけ立っておられるんです・・・。

 

後編は、安田ご長老に「食」についてのお話をお聞かせいただきます。
後編へつづく