祝御遷宮 伊勢神宮(内宮編)

平成25年、62回目の「式年遷宮(しきねんせんぐう)」を迎える伊勢神宮。
式年遷宮とは、20年に一度、御社殿の隣にある敷地に新宮をお建てし、神々にお遷りを願う神宮最大のお祭りです。このお祭りでは、御社殿の建替えをはじめ御装束や神宝もすべて新調され、神宮は常に新しく保たれます。 式年遷宮の年、持統天皇4年(690年)から1300年以上も続くこのお祭りの意味に思いを馳せながら、早春の神宮をお参りしました。
全3回の最後は、内宮をご紹介いたします。

今から約2000年前、第十代崇神天皇(すじんてんのう)の御代まで、天照大御神(あまてらすおおみかみ)は宮中に祀られていました。しかし、疫病の蔓延や戦乱によって、第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)は、皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)にお祀りを託し、倭姫命は更に良い宮地を求めて旅に出られます。諸国を巡り、伊勢の国の宇治に辿り着いた時、大御神のご神託によってこの地を宮地と定め、天照大御神は五十鈴川の川上に御鎮座されたと伝えられています。

――日々、神々に奉仕をされている神宮の神職であり、神宮司庁広報室所属、神宮宮掌(くじょう)の尾崎友季様に内宮をご案内いただきながら、お話しを伺いました。

神道には「常若(とこわか)」という言葉があります。この常若の思想が式年遷宮(しきねんせんぐう)の根底にあり、神様には常に瑞々しい御社殿で、御神意を発揮していただくことによって、国も人も、若々しく瑞々しい状態を保つことができるという考え方が、20年に一度の遷宮に繋がっております。

式年遷宮の祭事はその年だけではなく、今回の第62回は平成17年に行われた山口祭から始まっております。内宮(ないくう)に架かる現在の宇治橋(うじばし)は、平成21年11月に架け替えられました。内宮では年間600万人、20年間でほぼ日本の人口と同じほどの人々が渡って行かれますので、橋の表面が架け替える頃には数センチも磨り減っておるようです。橋の内と外にございます鳥居の柱は、前回の遷宮まで内宮外宮の御社殿に用いられた「棟持柱(むなもちばしら)」を、そのまま鳥居として使っており、内側は内宮社殿の柱、外側は外宮社殿の柱を使用しております。ですから、この大きな柱は御社殿を20年支え、宇治橋の鳥居となって20年、その後、外側の方は桑名の七里の渡し跡と、内側の方は関の追分(おいわけ)と言われています亀山市のあたりで、それぞれ伊勢の国への玄関口に立つ鳥居として、少なくとも60年のおつとめを果たすということになります。古い御社殿で使われておりましたその他の用材の多くも、神宮と由緒深いお宮さまの御社殿などに再利用されております。

内宮の神域内を通る五十鈴川のほとりに、御手洗場(みたらし)という場所がございます。ここは江戸時代、五代将軍「綱吉」公の生母「桂昌院(けいしょういん)」様が寄進したといわれております。この川は、別名「御裳濯川(みもすそがわ)」ともいいまして、天照大御神様のお告げによりこちらにお宮を建てられた、倭姫命(やまとひめのみこと)様が御裳(みも)の裾をこの川で濯がれたということでそう呼ばれております。その時代からの清き流れが、今に残っているということですね。

この辺りは非常に降水量が多いと言われている地域で、山に降った雨が非常にきれいな流れで、ミネラルや栄養分を蓄えて下流の地域へ流れていきます。神宮ではその水脈からの水を使い、神宮神田(じんぐうしんでん)でのお米の栽培や神宮御園(じんぐうみその)において果物や野菜を育てています。(神田については、前回の特集をごらんください。)また、最後にたどり着く伊勢湾の河口では、入浜式塩田にて塩を作っております。

山から流れて来た水が田畑を潤し作物を育て、ミネラルをたっぷり含んだ川の水が海に流れ込むことで、良い塩が採れ、魚介類が育ち、良い漁場となる。海に流れた水はまた蒸発して雲となり、山々に多くの雨をもたらします。このサイクルは、天照大御神様がこの伊勢の地に御鎮座することになってから、脈々と続いてきた非常に優れた循環型システムであります。その循環の中で頂いた恵みを神様に捧げ、また我々も頂くというシステムが古代から受け継がれてきたのです。ですから、五十鈴川は伊勢の神宮を象徴する流れになっていると言えます。
以前、中東のある国の方がこちらに来られた際、水が豊富にあり、木々が豊かに茂っているところをご覧になって、「我々が想像していた楽園天国とはまさしくこういう場所なのだ。」とおっしゃいました。五十鈴川の御手洗場は、神宮が言語・宗教・文化を超えた聖地であるということを来られた方々にご認識いただける場所の一つではないかと思います。

五十鈴川の傍には、この川の守り神である瀧祭神(たきまつりのかみ)が祀られております。所管社(※1 )ではありますが、こちらだけは別宮と同様の規模でお祭りを行いまして、お供え物も別宮と同じになっております。また、所管社は通常は権禰宜(ごんねぎ※2 )から以下の神主が奉仕をするのですが、禰宜(ねぎ)職が別宮と同じように奉仕するという非常に重要なお社になっております。 囲いの中を少し覗いていただくとわかるのですが、こちらには御社殿がなく、石積みがあるだけなのです。古代の磐座祭祀(いわくらさいし※3 )のかたちがそのまま現代にまで受け継がれております。 

※1 神宮は、2つの正宮と14の「別宮(べつぐう)」、更に「摂社(せっしゃ)」、「末社(まっしゃ)」、「所管社(しょかんしゃ)」を合わせて125社の総称。お祭りを行なうにあたって重要なお役目をされているお社を所管社としてお祀りしています。

※2 神宮では、大宮司(だいぐうじ)、少宮司(しょうぐうじ)、禰宜(ねぎ)、権禰宜(ごんねぎ)、宮掌(くじょう)という職階を置いています。

※3 磐座祭祀・・・日本で古くからあった祭祀形態。


内宮の宮域は約5500ヘクタールございまして、そのほとんどが山です。これだけ森が深いと動物たちも棲んでおり、夜になるとよく出てきます。神主が詰めている建物があるのですが、そこは24時間必ず誰かがいるようになっていますので、私も夜にそこで勤めておりますと、ムササビの鳴く声を聞くことがあります。 夏などは、川が近いということもあり、以前は夜のおつとめをしている最中に、蛍たちの光で障子が光ったり消えたりすることもあります。

玉砂利の音だけが心地よく耳に響く、木漏れ日のさす樹木の密集した静寂の「杜(もり)」の道を歩んでいると、自ずと心身が洗われるような神妙な心境に誘われます。やがて、御正宮の石段下につきました。

御正宮の石段の下にある建物は、「御贄調舎(みにえちょうしゃ)」と言いまして、神様にお供えする鰒(アワビ)を調理する場所です。他の神饌(しんせん:神へのお供え物)は、忌火屋殿で調理をして直接お供えに行くのですが、鰒だけはこの場所でお祓いをしたあと最後の調理を行います。奥には石積みがあり、調理をする際にそちらまで豊受大御神様にお越しいただいて、様子をご覧いただきます。豊受大御神様は食の神様ですから、最後に食を司る神様としてお供えするものをご確認いただいた上で、天照大御神様にお供えをしております。 この御贄調舎の前にある結界は「蕃塀(ばんぺい)」と言い、御正宮のいわゆる目隠しで、ここから先がいよいよ天照大御神様が御鎮座されている場所ということになります。

撮影が許可されているのは石段の下まで。御正殿は最も清浄なる内院にあり、瑞垣(みずがき)、蕃垣(ばんがき)、内玉垣(うちたまがき)、外玉垣(とのたまがき)、板垣、の五重の御垣に囲まれています。一般の参拝者は、30段余りの石段を上がって外から2番目にあたる外玉垣南御門の前まで進んで祈りを捧げます。御祭神は「天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)」。皇室の御祖神で、日本国民の総氏神です。二拝二拍手一拝で手を合わせ、静かに感謝を捧げます。その昔、神宮を訪れた西行法師は、「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」という句を詠みました。御正宮の前で祈りを捧げ終わると、誰もがそのような言い様のない感情を覚えるのではないでしょうか。

御正宮から荒祭宮(あらまつりのみや:内宮の第一別宮)に続く参道に、御稲御倉(みしねのみくら)がございます。神宮神田(じんぐうしんでん)で9月に「抜穂祭(ぬいぼさい)」という刈入れのお祭を行うのですが、そこで刈り入れた稲を貯蔵しております。「三節祭(さんせつさい)」(6月・12月の月次祭(つきなみさい)と10月の神嘗祭(かんなめさい))で使うお米を籾(もみ)のまま入れておきまして、お祭りの前に精米して用います。精米したお米は蒸してご飯にしたり、お餅にしたり、お酒も作ります。お酒は、大きなお祭りでは4種類をお供えします。そのうち「白酒(しろき)」は一般でいう「どぶろく」です。また「黒酒(くろき)」は、白酒に植物の灰を混ぜたものです。それから、「醴酒(れいしゅ)」または「一夜酒(ひとよざけ)」といいまして、これはお米に麹だけを入れて発酵させたもので、ヨーグルトのようにどろどろしています。それから、清酒。これは特別な技術が無いと作れませんので、これは特定の酒造業者から納めていただいております。ですから、この4種類のうちの3種類は神宮で獲れたお米を用いまして、神主が忌火屋殿(いみびやでん)にて作っております。また、こちらは「御稲御倉神(みしねのみくらのかみ)」という神様がお祀りされているお社でもあります。

御稲御倉と隣接いたします外幣殿(げへいでん※4 )は、20年に一度の建て替えが終わったところで、神明造(しんめいづくり※5 )の御殿の形を非常に間近でご覧いただけます。新しい檜の良い香りも感じられるのではないでしょうか。新しく建てられた棟持柱(むなもちばしら)は、桁(けた)が少し浮いて隙間が空いています。これは、鰹木(かつおぎ)が乗った屋根の重みで沈んで行くことを計算に入れ、20年間でぴったりと納まるように建てているのです。

 ※4 外幣殿・・・皇室からのお供え物や神宝(しんぽう)等が納められています。

 ※5 神明造・・・柱を直接地中に埋めて立てる掘立式で、総檜の素木造り。弥生時代の高床式の穀倉を原形としていると言われており、萱葺きの屋根の両妻にある破風が延び、屋根を貫いて千木となっています。御正宮は他の神明造と異なる独自の様式であることから「唯一神明造」といわれています。


荒祭宮(あらまつりのみや)
荒祭宮は、天照大御神様の荒御魂(あらみたま)をお祀りしており、内宮の第一別宮です。他の14の別宮と比べても御社殿自体が非常に大きく造られています。 5月と10月の14日には「神御衣祭(かんみそさい)」という、絹と麻の布と、それに針と糸を添えてお供えするというお祭りがあり、俗に神様の衣替えという言い方もします。織物は稲作文化と一緒に、日本の根幹産業のひとつでも有りましたから、新しい布を納めまして、神様のご神意を発揮していただくのが一番の目的になります。このお祭りは、内宮の御正宮とこちらの荒祭宮だけで行われます。 松阪市には「神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)」と「神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)」という神宮の所管社があり、そこに隣接する機殿(はたどの:機織作業をする場所)で、地元の織り子さんに1週間ずつかけて「和妙(にぎたえ:絹)」「荒妙(あらたえ:麻)」の反物を織っていただき、それをお供えします。その織物を作る御衣奉織(おんぞほうしょく)の行事は松阪市の無形民俗文化財になっており、春と秋の風物詩として親しまれております。

神宮をはじめ、全国の神社もそうですが、お祭りの多くは稲作のサイクルによって行われると言っても過言ではありません。2月には、その年の稲が豊かに実るようにという祈年祭からはじまり、神田での種まき、そして御田植えのお祭りをして、5月と8月に風雨の順調を祈るお祭り「風日祈祭(かざひのみさい)」を行い、9月には収穫のお祭りをいたします。更にそれに伴っていくつかの様々なお祭りも行われ、10月の神嘗祭に集約されていく。それを毎年続けて参りました。 天照大御神様が天孫である瓊々杵尊(ににぎのみこと)様を葦原の中つ国(なかつくに)に降ろされる際に稲穂を授け、「これを日本人の主食とするように。」と、稲を作るくらしがこの国の繁栄と平和をもたらすとお教えになられてから、神宮は2000年以上もその教えを大切に守り続けてきたお宮なのです。

式年遷宮は、日本人の衣・食・住の粋を結集したお祭りと言えます。「衣」は着るもの。これは、遷宮のたびにお供えされる御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)のこと。人間国宝の方々も含め、当代一の技術者によって、それらがすべて古来のままに作られて、2つの御正宮、14の別宮合わせて、714種、1576点の御装束神宝が奉納されます。そして、「食」はその年に採れた新穀を神嘗祭(かんなめさい)にてお供えしますが、式年遷宮は20年に一度の「大神嘗祭(だいかんなめさい)」の意味を持っています。そして、「住」に関しましては、唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)の木造建築を20年に一度建替えていきます。これらは、非常に我々の生活と密着しておりますので、伊勢の神宮に来られますと日本の様々なことがわかると思います。日本人とは何か、日本の文化とはどんなものか、そのアイデンティティを求める意味合いで、神宮にお越しいただき、見て、感じていただけたらと思います。海外の文化や思想を知り、国際化することも重要ですが、同時に我々日本人がどういうアイデンティティで、どういう国民なのかということを海外の方々に知って頂くことも、非常に重要だと思います。神宮へのご参拝がそういったことを考えるきっかけとなりましたら、我々としましても幸いでございます。

伊勢神宮ウェブサイト http://www.isejingu.or.jp/

日本人は、昔から「八百万の神(やおよろずのかみ)」として大自然の中にいつも神を感じていました。天照大御神は天地を照らし、生命を育む太陽にもたとえられます。太陽の光がなくては水も空気も緑も、どんな命も存在することができません。大切なものだから、常に在り続けなければならないものであるから、人々は感謝し、いつまでも瑞々しくあるように祈りを奉げてきました。そして、その祈りが祭事として行われるようになり、日本の文化を今に繋いできたと思うと、神宮で20年に一度行われる式年遷宮は尊く、日本人としての誇りだと感じたのです。 伊勢の神宮をお参りして、私たちの祖先たちは何を思い、何を理想としてきたのか、そして、長い歴史の中で、何を大切に守ってきたのかを考えることで、自分が生まれた国や文化により一層の誇りが持てるのではないかと思いました。神宮は、日本人が古来より祭儀を繰り返すことによって、常に新しく生まれ変わってきた、唯一の「常世」であるのかも知れません。

(2013年3月取材・文 島田優紀子)

*次回の「賢人の食と心」も是非ご期待ください。