中華料理界の重鎮が思う 今の日本に必要な食育とは

兵庫県宝塚市の高台にある閑静な住宅街。朝、山手にあるマンションに、エプロンを手にしたマダムたちが次々とやってきます。そこへ「おはようごさいます」と颯爽と登場したのが中国料理研究家の程一彦さん。今日も自宅を開放しての料理教室が始まります。程さんが料理教室を始めたのは今から50年以上も前のこと。80歳を迎えた今も変わらず精力的に指導を続けています。この日は料理教室の様子を見学させていただいた後、程さんの食育についての考えや料理への思いをうかがいました。

今回は、中国料理研究家 程一彦様に、今の日本に必要な食育についてお話を伺いました。

程一彦様

昭和12年 大阪生まれ
追手門学院中学、灘高等学校、関西学院大学文学部卒業。中華食材の貿易業を経て、1961年から台湾と香港で1年間修行後、一家が経営する「台湾料理 龍潭(リュータン)」の2代目オーナーシェフに。現在は宝塚の自宅で1日1組の予約制ハウスレストラン「龍潭」と料理教室を行う。数校の中・高校、大学で特別講師を務め、テレビやラジオ、雑誌などで活躍。2016年にはフランスの料理専門誌『Le Chef』で「2017年度世界のシェフ100人」に選ばれるなど、国内外から注目される中国料理界の重鎮。2017年からNHK Eテレ「きょうの料理」に毎月1回(12回シリーズ)出演。著書は『程一彦のかんたん家庭薬膳』(PHP研究所)、『炒飯・点心教室』(千趣会)、『程さんの「毎日食べたい」台湾料理』(光文社)など10冊。
宝塚市大使、淡路市食の観光大使、若狭おばま御食国大使、日本レスキュー協会理事、日本中国料理協会顧問

プロの知恵と技を伝える料理教室

1回約3時間のレッスンは、家で簡単に作れる中国料理を教えています。生徒はプロ・アマ問わず。女性だけでなく男性の参加者もおられますよ。なかには3時間以上かけて愛媛や東京からはるばるやってくる人も。これまでの生徒のなかには、有名ホテルの総料理長になった人や自分でレストランを開いた人もいます。

今日のメニューは豚まんと、2つのソースを添えるバンバンジー、野菜のとろみスープの3品。「一汁一菜一飯」献立の基本です。人数は4人から10人まで。授業は私と助手の2人体制で、ほぼマンツーマンです。この料理教室では、素材のうま味を引き出すコツや家庭でも失敗しない調理のポイントなど、私の長い経験のなかで培ったすべての知識と技をみなさんに伝えています。食材や調味料、食器は最高のものを使うのが私のポリシー。私自身が生徒さんから教わることもたくさんあり、勉強になります。

今年の春からは子ども料理教室も始めました。一時期、高校1年生の男の子が教室に通ってくれましたが、大人に混じってのレッスンなので、私のほうが遠慮しちゃって。男の子に教える内容では大人が不十分だし、大人に教えるレベルでは男の子にわかりにくい。そこで大学生になってからまたおいでねとお休みしてもらいました。

家でも子どもを包丁や火に触れさせて

以前、鹿児島県串木野市で親子料理教室を開催したことがありました。ホテルを会場に、一度に200人の小学生と親にチャーハンを教えるという大きなイベントです。食材は市が用意してくれて、フライパンと包丁、まな板などの道具は主催者側の負担を減らすために各自家から持参してもらいました。

子どもたちは包丁で食材を切るところから調理を始めます。人生で初めて包丁を手にする子もいましたが、親は後ろで見ているだけで手と口は出さないのがルール。それでも見るに見かねて「危ない!」と口を出す親がいます。親が言わなくても包丁が危険なものということは子どもが十分に理解しています。まだ小さいからと家庭で子どもに包丁や火を使わせない親がいますが、それは間違っていると思いますよ。子ども料理教室は子ども用の包丁ではなく、大人が使う包丁で行います。でも誰もケガはしません。このごろの親たちは子どもを過保護にしすぎていると思います。 チャーハンはもちろん全員大成功。おいしくできて子どもたちは大喜びでした。

子ども料理教室は、親たちが調理の仕方や食材の正しい扱い方を知らなくて、私の話を聞いてびっくりしていることがしばしばあります。私は今、観光大使をしている宝塚市で学校給食をサポートしていますが、献立を立てて調理師さんたちに調理指導を行うだけでなく、家庭でも給食を再現できるようにレシピを渡します。食器の扱い方や食事のマナーなども書き添え、家庭で食育に向き合ってもらえればと思っています。


親にこそ食育が大事な時代

今、食育が必要な世代は、子どもたちではなく親だと私は考えます。今の親は基本的な食事のマナーも理解していない人が多いです。食事のときに長い髪を束ねなかったり、足を組んだり、テーブルに肘をついて食べたり。食器を扱うのに片手で持っても平気。親が正しい作法をマスターしていないと、子どもはできなくて当然です。

子どもの好き嫌いは、親に原因があると私は思います。「嫌いなら食べなくてよい」ではダメ。親が頼りない! 子どもの好き嫌いに左右されない親の主体性が大事です。小さいときから料理をするのは最高の食育だと思います。自分で作ったものは積極的に食べるから好き嫌いがなくなり、わがままを言わなくなります。

子どもたちは、それぞれにすばらしい感性と可能性を持っています。子どもたちの秘めた能力を引き出すのが私たち大人の役割。大人がもっとしっかりしないといけませんね。

厳しい親のもとで育った強い心

私が8歳のときから両親が中華料理店「龍潭」を経営して、店の2階に家族で住んでいました。今振り返ると、両親の教えのすべてが食育だったと思います。幼いころから食事のマナーはもちろん、生活態度全般について細かく教えられました。私には父にも母にも甘やかされた記憶はありません。

小学2年、8歳からの調理場での皿洗いが私の料理人としてのスタート。灘高校の入学試験に受かった日に浮かれていたら父親に言われました。「おめでとう。今日から一彦は店のお手洗いの掃除係や」と。店の便器を磨いて、汚れていないか常にチェックして。いやいややっていましたよ。そんな親は偉いと思います。おかげで私は手洗いの掃除が苦痛ではありません。

子どものころは父親があまりにも厳しすぎて、本当の親だと認めたくないときもありました。あるとき父親に反発したら、「獅子は我が子を谷底に突き落とす。それで這い上がってこられなければそれまでや」と諭されました。私を厳しく育てたのは、私の力を心底信じてくれていたからなんだと思います。


今も料理人として成長の途中

このような環境で育ったので、子どものころは大人になったら絶対に調理師にはならないでおこうと思っていました。プロになってからも、私は向いてないなぁ、諦めようかなぁと思ったことは何度もあります。料理が本当に好きになったのは40歳を過ぎてから。それまではオーナーシェフとして店を経営しながら料理を作り、スタッフの指導などで気持ちに余裕がなく、自分の思う通りにいかなくて。実力もなかったから失敗もたくさん経験しました。30代でテレビやラジオにメディアデビューもしていましたから、うぬぼれもあってギラギラして、脂ぎった生意気な人間でした。家族や周りの人々にずいぶんと迷惑をかけたと反省しています。

ところが40歳を過ぎると急に目の前が明るくなり、料理がもっと楽しくなってきました。思い返すと、8歳から料理の世界で育ったおかげで今の私があると思います。父の言葉「門前の小僧は習わぬ経を読む」の通り、私の師匠は「龍潭」の厨房と両親の教育。日本と中国、2つの国の食の掛け橋になれたら幸いです。でも料理人としてはまだ未熟。未だに失敗することがあるし、もっと勉強しないといけません。まあ、包丁で手を切らなくなっただけ少しはマシかなぁ(笑)。

人柄がそのまま料理の味に表れる

母は店の味のご意見番。優れた味覚の持ち主人でした。特に台湾の郷土料理焼きビーフンの味には厳しかったですね。私が初めて母に褒めてもらったのは60歳のとき。「お前の焼きビーフンはおいしくなった」と言われたときはうれしかったです。ちょうどそのころお客さんに「程さんらしい味ですね」と言葉をいただいて、「どんな味ですか?」と聞くと「やさしい味や」と。

そのとき僕が思ったのは、料理は人間が作るから、作り手の人間性もそのまま味に出るということ。同じ材料で同じ料理を作っても、手のひらから出ているものも違うし、人によって自然と味は違ってくる。これが料理のおもしろいところですね。人にも食材にも優しく接することが大事。料理は正直です。 家でご飯を作るときはニコニコしながらやってほしいですね。鏡を見て、おでこのシワを横にすること。縦じわの寄った怖い顔ではおいしい料理はできません。幸せな気持ちで料理をすると味がワンランクアップします。


中国料理は火力が命ではない

私は両親が中国人と日本人でハーフだから、2つの国の「味の物差し」を持っています。ハーフだから両方の国の料理の良さと違いがわかり、この感覚が私の料理に活かせていると思います。見てもらった今日の料理教室の棒々鶏(バンバンジー)は日本風にアレンジしました。家庭で作りやすいからです。実はバンバンジーは本式で作ると40分以上かかる料理なんです。

料理は今の時代の生活に応じて、誰もができるように工夫しないといけないと思います。私は特殊な調味料は必要なとき以外使いません。今日の料理教室でも中国料理の調味料は豆板醤だけ。家庭で中国料理をおいしく仕上げるために、一番大事なのは「火の扱い方」です。「中国料理は火力が大事」と言われていますが、それは一度にたくさんの料理を作る料理屋の場合。家族4、5人分なら家庭用のコンロでも十分に調理ができます。私の料理教室で使うのは家庭用のコンロ。しかし、ちょっとしたコツがあります。炒め物、煮物、揚げ物は必ず鍋に蓋をすること。蓋をすると鍋が熱を蓄えて食材にうまく火が通ります。

家庭でも失敗しない調理法を

世間には間違って伝わっている料理の知識がたくさんあります。例えば揚げ物の油の温度。数年前までテレビや料理本では180度と言われていたでしょう。実は165~170度が適温です。しかし私の教室では、家庭用に考えた新しい方法で、常温から揚げます。常温の油から揚げたのと165~170度で揚げたのを食べ比べてみると、常温のほうが油の切れが良くておいしいとわかりました。常温の油の中に食材を入れて火をつけますが、鍋に入れる油の量は鍋底から1cm程度です。ポイントは温度を上げるために蓋をすること。ただし、このとき鍋蓋の内側には水滴が付くので要注意。こまめに拭き取ってください。

これまで発信されてきた中国料理の情報は、プロが実践しているプロ目線が多かったのです。私の料理教室はあくまで家庭の主婦目線。料理本も昔は完成写真だけでしたが、近ごろはプロセス写真で途中経過を紹介しています。写真の方がわかりやすいですね。時代の流れは「スピード」と「簡単」と「エコクッキング」。失敗せずにおいしくできることを大事にしています。

100歳まで現役でいるために

私は今年の12月で81歳になりますが、今も元気に頂いた仕事を楽しくこなせているのは、食のおかげだと思います。病気になったときは医者の言うことを聞きますが、普段はサプリメントも薬も一切飲みません。風邪かなと思ったときは生姜湯で大丈夫。中国料理で良かったと思うのは、薬膳が勉強できたことです。日ごろの勉強とその経験からまとめた「程さん流健康養生訓十箇条」を長年守っているおかげで元気に仕事を楽しんでいます。

「程さん流健康養生訓十箇条」では、まず朝はコップ1杯の水を飲みます。ペットボトルの水は動きがなく、中国薬膳で大事な「気」がないから水道水を。すると便秘が解消して腸が清潔になり、善玉菌が増えて悪玉菌は減るので便とおならの悪臭が消えます。朝食は腹八分目。15分間以上かけて食べると、満腹中枢を刺激します。食事では緑野菜を多く摂取し、赤・黄・茶の野菜もバランスよく、効率よく摂ります。特に緑野菜は赤血球になり、血流を促して体の隅々に酸素を運び冷え症対策に。冬も薄着でへっちゃらです。

重い中華鍋を振るためには筋力が必要なので、適度な運動は欠かせません。家でテレビを観るときは10ポンドの鉄アレイを持って筋トレをしています。関学入学時の18歳から続けているジャズボーカリストとしての活動もまだまだ現役。「歌う料理人」は楽しいです。私の目標は100歳まで料理人として世の中の役に立ち、若い人たちに私が学んだことを伝えること。まだまだがんばります!

(2018年4月取材・文 岸本恭児)

【訃報】
令和元年(2019年)6月下旬、程一彦先生がご逝去されました。程一彦先生には生前、食育大事典に多大なるお力添えをいただきました。心より感謝と共に、ご冥福をお祈り申し上げます。